狸オヤジへ愛をこめて──50歳・反抗期の終りに──


むすかりんT&S


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5月の創作展示会は予定通り開催され、無事終了した。
幸運にも凛の冊子も2冊「ほど」売れたらしかった。
報告には今後もできれば年2回のペースで創作展示会を開きたいともあったが、現在のセンターが引きこもり当事者の創作を支援し発表する能力を考えれば、その前途には解決すべき課題が山積みにちがいなかった。

たとえば、今回の冊子の正確な売り上げは作者である凛の元に創作展終了から2週間たっても報告されず、結局彼の方から問い合わせねばならなかった。
「こも*リフ」という開かれた発表形態から、冊子という文字通り「綴じた=閉じた」形のものに変更された自分の作品が、はたしてどれほどの人の目に届いたのか。
それが気がかりだった当時の凛にとっては売り上げの額よりも部数が重大な問題だったのだ。
しかし理事長から送られて来た回答は、さらにその後「こも*リフ」に掲載されたものとも食い違っているという念の入りようだった。
この食い違いについても、例によってその後理事長からそれ以上の説明を聞くことは一切できなかった。
また結局、発行部数や価格についても凛がかねて不安に感じた通り、センターが作者の承諾を得ずに設定したものだった。
「センターが作者に内緒で大部数の冊子を刷りまくり、売りさばく心配(能力)こそないとしても、このありさまでは検印制度の復活も必要じゃないんだろうか」と凛は思った。
ちなみに価格の50%の作者利益(理事長のいう「売上げ」)が送られて来ない理由が「千円以下だと郵送料金の方が高くついてしまうから」だという点についての「ではなぜATM振替で送らないのか」という質問に対しては理事長からの回答はなかった。
本にするための原稿が少なくて困っているセンターが、売上げを総取りするために、わざと売れ行きを低くコントロールするとも凛には思えなかったが、一般論から言えば、このような重要事項をあらかじめ作者に知らせない団体も間違いなく不正商行為を疑われるだろう。

さらにしばらくたったある時、センターから凛の元に「あすなろ雑貨」というネットショップを開くことになったという知らせが届いた。
ここで創作展に出品された作品を売るのだというから、冊子になった凛の生活エッセイも含まれるものと思われた。

この知らせを読んで、彼の心にはむしろ素直に喜ぶ気持ちより不安が湧いてきた。
センターにネットショップが運営できるのだろうか。
あるいは「ネットショップなら人と顔を合わせずに済むから」という、安易というよりは引きこもり当事者にとって切実な発想によるものかも知れないが「こも*リフ」が見た目こそ雑誌に似ていたが実際はそれにはるかに及ばなかったように「あすなろ雑貨」もまたネットショップに似て非なる何かに終りはしないか。
センターに向いているのは賑わいや信頼感が成功には不可欠だというネットショップよりはむしろ、レンタルボックスではないだろうか。
たしか昔「こも*リフ」にも引きこもり当事者の作品をおいてくれるという喫茶店の声が掲載されていたはずだ。
この時点で凛は自分の作品を売るつもりはなかったので、商品が売れるかどうかという問題とは無関係なはずではあったが、
「ああいうパイプを太くして、できれば数も増やしておけばよかったのに」
と思わずにいられなかった。

こういう提案を聞いた後でしばしば杉畑理事長が口にする言葉が「やる人がいません」というものだった。
ある時、凛が受けた文通の申し込みに対しセンターを介して返事を送ったところ、全く知らぬ別人のところに届いてしまったことがあった。
同じペンネームを使っている人が2人いたことを把握していなかったという、文通仲介活動としてはごく初歩的、かつ致命的なミスによるものだが、それに対して凛が送った「ペンネームと会員番号との併用」という提案も、不可解なことにこの一言のもとに斥けられたことがあった。

もし本当に「やる人がいない」つまり、より現実的かつさほど難しいとも思えないアイデアを実行に移す意欲を持った人がいないのならば、とうてい活動は成立しないはずだが、と凛は思った。
ある時凛は手紙で「能力のあるスタッフをやとわないのか」という質問をしてみたが、 理事長からの回答は「現在のセンターにはスタッフを雇う経済的な能力がありません。能力のないことに挑戦すればつぶれます」というものだった。
「能力のないことに挑戦すればつぶれる」
理事長のこの言葉こそまさに凛の方が伝えたかったことだったのだが、皮肉なことにセンターはこの後、さまざまな活動に挑戦しては破綻し、自からこの言葉を証明することになるのだった。

凛の家に一番近い図書館の2階には、ネット検索用のパソコンが十台ほど並んでいた。
それまで彼はろくに興味も持たなかったが、彼の文章を掲載したサイトやそれを商品として扱うネットショップがある今、それらはあながち自分には無関係なものとも言えなくなっていた。
ついにある日、彼はそれを使ってセンターのウェブサイトを覗いてみることにした。
館内の資料を検索する端末以外、彼がパソコンに触れるのはこれがほとんどはじめてだった。
「へー、意外に順調に活動しているみたいだな」
次々と現れるページを見るうちに、やがて凛の中で初めてのパソコンに対する緊張とセンターの活動存続に対する不安は消えていった。

しかし、彼はまたもや不可解な事実二つに気づいた。
一つは理事長がプリントにわざわざタイトルを直筆で書き加えて「こも*リフ」からの転載の許可を求めてきた凛の手記が見つからなかったことだった。
作者の許可が得られなかったいくつかの文章については掲載がないのは当然だが、一度は出版したいとまで思った彼の手記も、表向きにはその中の一つとして扱われているのだろうか。

もう一つは「あすなろ雑貨」で彼のユニット折り紙作品が販売されていることだった。
これを発見した時彼の中には、不可解な思いというよりはまず怒りがこみ上げてきた。
最初に手紙で、そしてその後の電話で「これは売れそうですね」と言う理事長に対して「でも売らないで下さい」と2度もはっきりと断っておいたのに。
もちろん3個で900円という値段も彼に何の相談もなく勝手につけたものだった。
「何度でも言ってやらなくちゃな」

しかし彼の3度目の抗議に対して理事長から送られてきた返事は次のようなものだった。
「完成を目ざしていますが、まだ『あすなろ雑貨』は商品が売れる状態ではありません。六坂さんの作品についてもこの値段なら売れないだろうとのことでつけています」
この回答は一体彼を安心させようとしたものなのか、それとも激怒させようとして書いたものなのか。
そう当惑する一方で「短いながらいつも通りの理事長独特の考え方がよく表れた文章だな」と凛は納得もしたのだった。

ちょうどそのころ凛は新しい工作について新たなアイデアを思いついたところだった。
多面体ユニット折り紙に、完成時のイメージをもとにデザイン、印刷した専用紙を使い、組立てをパズルとしても楽しめるものにするのだ。
今までの出来合いの紙を使ったものとは違って、彼が自からデザインしたものであれば、それはオリジナリティーも具えた「作品」だし、パズルを売ることは作品を売ることとは違って立派な「実業」として胸も張れる。
凛がこう考えたのには、次のような理由がある。

彼は子供の頃から絵を描くのが好きだったが、不思議と画家になりたいとは思わなかった。
彼にとってあくまで彼の絵は「描くためのもの」でしかなく、自から売ったり他人に描いてもらったりするものではない。何かを作ることもまた同じだったのだ。
また大人になった今考えれば、画家という職業が「絵を描く才能の格差」や「それを売る側と買う側の経済的な格差」を前堤に成立しているように見えるのも嫌だった。
人生で一番大切なものは「絵を描き、ものを作り、音楽を奏で、植物を育てる、そのような営みが与えてくれる楽しさ」すなわち創造の喜びだ。「美しさ、楽しさ」という「命を導くもの」はたとえば「衣食住」といった「命を支えるもの」より大切なものなのだ。
その証拠に、美しいもの楽しいものを求める心を持った者はしばしば極貧生活にも耐えるが、一方でそのような心を失った人は不自由ない生活の中でさえ自殺してしまうではないか。
したがって作者の創造の結果ではなく、パズルのように買う人自らが創造の楽しみを味わえるものを売ることこそ、ことに現代社会においてはあらゆる仕事の中で一番誇らしい仕事なのだ。
かいつまんで言えば、これが最近の彼の、例によってエキセントリックな持論だった。

凛はさっそく手描きしたデザイン原稿をスーパーのカラーコピー機にかけて試作品を作った。
あくまでも試作品と割り切って作ったものだが、意外にも出来は悪くなかった。
まだまだ完成度に不満は残るが「あすなろ雑貨」の商品にすることはできるだろう。
次の作品は料金もやや割高なぶん仕上りの綺麗そうな専門店のコピー機を使うことにするが、もし折り込みチラシのようにオフセット印刷で用紙を作ることができれば、仕上りはより美しく、コストはより低くできる。
しかしそのためには何百枚単位で販売できる体制が必要だった。
できることならセンターと「あすなろ雑貨」にその役割を担って欲しかったが、それは酷というものでもあり、何より彼自身にふりかかる危険が大きそうだった。
それでも「運がよければ次の創作展示会にはこれを商品化してくれる事業者とのつながりができるかも知れない」そんなか細い希望も托して凛はセンターにこの新作を送ることにした。
また何より今「あすなろ雑貨」には彼が販売を希望しない作品が並んでしまっている。
それもこの新作を販売可能な作品としてセンターに送って、差し替えてもらえばすぐに解決する問題だと彼は考えたのだった。

「私のユニット折り紙作品のうち前にお送りしたものをA、今回お送りするものはBとします。このうちAについては

作品としてのオリジナリティーに乏しいこと
値段をつけて売れるレベルではないこと
しかし作者としては愛着も感じており、手放す気はないこと

以上の3つの理由により、前にもお願いした通り、展示会やネットショップでの販売はしないで下さい。
次回の展示会に備えてそちらで保管して下さることには何の問題もありません。

Bは私が用紙をデザインしたものであり量産も可能なため、販売も考えておりますが、 今回お送りするものはあくまで展示用、見本用の非売品としてそちらで保存し、販売用の作品については、恐れ入りますが一個あたり10O円の料金を前払いの上 改めてこちらにご注文下さい。早速制作にとりかからせて頂きます。
また現在『あすなろ雑貨』のサイトに表示されているAの画像は、お手数ですがBのものに差し替えて下さい。
なお、この作品はパズル的性格の強いものですので、販売するのであれば完成品ではなくキットの形で販売して頂きたいと思っております。ご検討下さい」

凛が新しい作品とともに送ったこの文章に対する返事はその後いくら待っても送られて来ず、また差し替えの依頼も聞き届けてもらえなかった代わりに、 理事長からは例のごとく作品募集の依頼が届いた。
「売るなというものは売るくせに売っていいというものは無視か。まるで嫌がらせだな」
何度目かの依頼に対し、凛はこう返事を書き送った。

「私の工作は制作にコストがかかるものです。無職無収入の中でやり繰りに苦労し、命をけずりながら作品を作っています。料金を前払いの上注文してくだされば商品をお送りします」

「私たちは無職ではありません」というアリバイでネットショップを運営していること自体を非難する気はない。
しかしそのような店に置くために、私の作品を求めないで欲しい。
「作者が命を削って作った作品を扱うんだったら売るヤツも生活をかけて売ってみろ!」
それが凛の偽らざる気持ちだった。

一方、研究レポート「ジャワの仏教遺跡と日本の相撲の土俵の起源の関連について」は3回に分けて連載されることに決まったが、一回目の掲載分に落丁があったことを理由にすぐ打ち切られた。
凛はこれを送られてきた「こも*リフ」誌上の告知で知ったが、理事長からも手紙で「1ページとばしてあります」という直接の「謝罪」をもらった。
なお不可解なことに告知によれば以降掲載予定だった分は「次号発行のとき全体を冊子にして一緒に送付させて頂きます」とのことだった。
「こも*リフ」掲載用にと送ったエッセイ「蝸牛園通信」が冊子に変更、今度はその代りにと送った研究レポートがまた冊子に変更されるのか?
センターがなぜか冊子作りに力を入れていることは伺えたが、凛は自分が何かと理由をつけては「こも*リフ」から締め出されているようにも思えてきた。
「こも*リフ」用の原稿を求めておきながら、こちらが送れば締め出す。
一体何のための原稿募集なのか……。

弱者を支援する団体というのは上から目線で施しを与えるだけの活動に満足すべきではない。
「弱者がいるからこそ自分たちの活動も成立しているのだ、支えようとする相手に自分もまた支えられているのだ」という視点を持つべきだ。凛はそう考えていた。
しかしセンターがその点についてどう考えているかについてはわからなかった。
通所する当事者が編集という形で「こも*リフ」を支える役割についているのであれば、自分にも、原稿を提供することで慢性的な原稿不足に悩む「こも*リフ」を支える役割を自認することが許されるはずだ。
そのように考えながら文章を綴り、センターからの募集を受けるたびに送った凛が、あるいはひきこもり当事者の分際に相応しからぬ「勘違い野郎」にでも見えたのだろうか。

凛はセンターに電話をかけ、申し訳ないが購読契約をしていない自分にもその冊子を一冊送ってほしいと伝えると
「はいはい。それはもちろんお送りしますがね……」
と理事長は避けるように無関係の話題に移った。

皮肉なことに、凛はセンターのおかげで知り合えた数少ない交遊関係からセンターの悪評を聞くことがあった。
センターの支援を受けて活動することをあきらめたという八木さんは杉畑理事長のことをこう一断した。
「あの人はバクシーシの親方ですよ。あるでしょ? インドなんかで貧乏な子供がボロ布で車の窓ふいて金を要求するヤツ」
つまり杉畑理事長は「テーマが引きこもりであること」か「創作の才能自体がないこと」の条件に該当する作品にしか興味を示さないということらしい。
またあるいは「創作好きなひきこもり当事者は詩人か画家になればいい」と言いながら彼が集めているのは「不遇(に終ることが確実)なマージナルアーティスト(もどき)」であり、決して支援さえあれば何事かを成し遂げたいと願う情熱とアイデアの持ち主ではないらしい。
だとすれば、他ならぬセンターこそは凛の嫌う「引きこもり札」を首にかけることを要求する場所ということになる。
さらに八木さんは言った。
「だって、あの人が出版社に熱心に売り込んでいる作品見ましたか?」
「ええ、何回か読みましたけど」
確かにそれらは凛の目にも、プロの漫画家やエッセイストとして通用できるレベルの作品とは到底思えなかった。
また、にも拘らず彼自身がそれに興味を持って読んでいたことに対し、時折ふと感じる後ろめたさの正体も八木さんの話で理解できた気がした。
「そうだったのか……だとすれば俺の手記も本にならなくてよかったのかもしれない」

「本当は外に出たいんです、働きたいんです」という当事者の声を耳にするたびに、
凛は「引きこもりは一体いつまで許しと同情を乞うようなポーズを取らされるのだろうか。俺なら『二階の屋根から飛び降りないのは、それができないからじゃなくて、そもそもしたくないからだ』と言ってやるのに」
とうんざりしていた。
しかし彼にも「なぜ飛び降りないんだ?」と聞かれてそう答えざるを得なかった時期があったことを考えれば、それは仕方ないことだった。
かつては凛自身が引きこもりであることの苦しみ悲しみを訴える手記を綴ったのだ。
それは多くの引きこもり当事者にとっても「自己治療」として有効、必要なプロセスなのだろう。
しかし今の彼は、それを「持ち芸」にして共感を誘う愚痴、同情を呼ぶ障害を待ち受ける市場を相手に創作活動をしたいとは思わなかった。
それにしても支援団体の代表であり、当事者に対して「自宅から、自室から出ましょう」と言う人物が、一方で彼らを「引きこもり」という肩書きアイデンティティー に閉じこもらせようとするとは妙な話だな、と凛は思った。

ともあれ「こも*リフ」を読む価値ある雑誌にしてほしいという凛の願いが、見当外れとして理事長に斥けられたのも八木さんの言ったことを考えれば頷けることだった。

また別の時に八木さんは
「引きこもりにもいろんな考え方の人がいますからねえ、支援する、されるの関係にはならない方がいいでしょう」
と意味ありげに言っていた。
あるいはセンターの活動に参加している「彼の考え方を快く思わない当事者」が凛の作品の発表に反対し、協力を拒んでいるといいたかったのだろうか。
しかし今起きている状況を考えれば、これも全くあり得ない話とは言えなかった。
理事長が気持よく「こも*リフ」に採用してくれた凛の手記は、連載中も不可解なことに一つだけ手記総索引からは除外されていたし、また理事長が希望し、申し込んできたはずのネットへの転載も凛が許可したにも拘らず、現在なぜか凍結されたままとなっている。

かねて凛は、少子化や引きこもりといった問題の根底にあるのは「文明と自然との対立」ではないだろうかと思っていた。
ここで言う「文明」とは技術の進歩だの経済的成長だのといった物質的な次元の話ではなく、人間にそれらを「崇高な目的」と信じこませる精神的、観念的な側面のことだ。
人間はこの文明という動物園に飼いならされることにより、動物として生きる自由と意欲を失ってしまっているのだ。
だとすれば引きこもりの当事者が発生することと彼らが叩かれることの原因は同一のものと考えなければならない。
少し昔、ある精神科医が思想用語を振り回してこの問題を解説し、メディアや世間を煙に巻いたことがあった。
彼のおかげで振り下ろされようとしていた多くの拳の動きが止まったことには、大いに感謝すべきであろう。
しかしまたそのせいで「引きこもり」に対する社会の理解は、遅れたのかも知れなかった。
凛はずいぶん前から、自分を待ち受け、降りかかる孤独や貧乏、不健康やその結果の短命といったものを受け止めることにしていた。
しかし彼以外の引きこもり当事者の多くは、それらいわば「自然が彼らに与える運命」と「それらの運命を受容したことに対し文明社会が彼らに与える罰」を分ける考え方や、そのどちらを拒否するかで正反対の方向に分かれる2本の道があることを知らないように見えた。
だからこそ彼らの叫びはしばしば、混乱、葛藤、矛盾のあらわれといった印象を与えるのではないか。

思えば「自然を受容し、自己目的化した文明の原理を拒絶する」という「こも*リフ」誌上での彼の宣言は、周囲の「大人」に踏み絵をつきつけられ「学校、社会への適応への意思をなんとか認めてもらわなくては」と悩んでいた多くの引きこもり当事者にとっては煙たいものだったかも知れない。

しかしだとすれば彼らは彼らの意見を述べればよい。凛の文章に石を投げ、唾をかければそれでよかったのだ。
支援活動に携わる者が意見の違いを理由に、ある個人への支援をボイコットするというのが許されることだろうか。

また凛の頭には別の可能性を示すような、以前聞いた話も思い浮かんだ。
ある独身の若い男性が近所に住む母親と同年配の女性に優しくされたという話だ。
「何か困ったことかがあったら相談してね」
と言うのだがその女性、特に何かができる訳でもなければ何かを知っている訳でもなく、ただしばしば美味しいとはいえない手料理を持って来るのが男性にはわずらわしかった。
ある時、お礼に料理には手慣れた男性が作った煮物をお返しに上げたところ、その効果はてきめんでその女性は以後ぱったりと来なくなったそうである。
もし男性が料理を喜んだフリをして食べ続けていれば、女性は喜んだであろうことを考えれば少々気の毒な話だが、支援団体がこの女性と同じでいい訳はない。

センターの活動に携わる人物が凛に対する支援への協力を拒んでいるとすれば、理由は彼への怒りなのか、それとも活動への幻滅なのか。
またそのことに理事長や他のスタッフは気づかないのか、あえて目をつぶっているのか。
彼の前に壁を作っているのは一体誰なのか。

これはもちろん現時点での凛の想像でしかなく、またセンターの活動の実態も意志も全く伝わってこない限りは、今後も凛の頭に渦巻き続ける想像にならざるを得なかった。

度重なるトラブルについて理事長は「パソコン入力の担当者は練習中なので不備があるのはやむを得ないこと」と弁明していたが、遠隔地の利用者が、意欲のないまま理事長の誘導によってパソコンの前に座らされた通所者の「練習台」にされているのだとしたら、とうてい納得の行くことではない。
凛はこのような迷惑な「引引支援」については考え直してもらいたいと思った。
理事長は文通をメールと差別化するために「直筆の魅力」をしばしば強調したが、それならば「こも*リフ」も手描きの投稿をなるべくそのまま製版すればよいのだ。
そうすれば誤入力や落丁などのミスも減らせる上、ネットやDTPの時代にあえて紙媒体で発行する意義もアピールできて一石二鳥なのではないか。
通所者向けにパソコンの練習が必要ならば、ぜひ別の場を設けてやってもらいたい。
このような考えをも凛はいちおう理事長に書き送っておいたが、当然これにも返事はなかった。

彼は発表の途を塞がれていることの焦燥を頭から追い払うかのように創作に打ち込んだ。

ある時凛はユニット折り紙の作品に、より複雑、精巧なデザインを施す方法を考えついた。
また、この方法は彼の作品のオリジナリティーを格段と高めてくれるだけでなく、技法そのものが彼のオリジナルであり、他の人にもこの技法によりオリジナリティーあふれる作品を作ってもらえる可能性を持つものだった。
ただしそれには、デザイン原図を何十枚と精密にコピーし変形させ、正確に配置するための道具一式、すなわちパソコンと画像作成ソフトとペンタブレットが必要だった。
より正確には「必要だった」ではなく、パソコンを一度も使ったことのない凛が「必要だと直感的に確信した」と言うべきだろうか。
したがって当然、買った後で当てが外れる恐れもないとは言えない。

それでも彼はしばらく考えた結果、この思いつきに賭ける価値はあると判断し、家電量販店へ行った。
自分のような、見るからに貧乏な者がパソコンを買うことが周りの人の目にはどう映るのかがふと気になったが、店員の態度からは当然そんな事は窺い知れなかった。
「他の人は何を考えて我勝ちにパソコンを買ったか知らないが、こんな俺にとっては今こそこの機械が切実に必要な時なんだ。 寿命をけずってでも買う覚悟を決めて来たんだ」
内心そうなかば力説、なかば弁明しながら彼は店員の説明を聞いた。
こうして彼がパソコン本体と画像作成ソフト及びペンタブレットを買ったのは、東日本大震災が起きる2か月前のことだった。

他の人と同様、何事が起きるか知るよしもない彼は、その日、その瞬間もまさにパソコンの作業中だった。
「地震だ!……」
いまだ経験したことのない強い揺れを感じ、身を固くすると、屋根の上で「ゴ…ゴーッ」という音が響いた。
彼の住む地域の被害はわずかで、彼の家でも幸い屋根瓦が数枚ずれただけで済んだが、彼を憔悴させたのはむしろこの自然現象から派生した余波だった。
幸か不幸かネットにはまだつながっていなかったが、その後しばらく彼はパソコンに没頭、逃避しながらいろいろなことを考えた。

どんなに人づき合いを避けても、またどんなに自主的な思考回路を守っても、生活の中にメディアを通して入って来てしまうもの、それが「正月」と「災害」だ。
日々絶えることなく流される事故や事件のニュースに、それを流すメディアを作り出した我々自身の感受性は耐え切れているのだろうか。
とはいっても野性動物を自認する彼とて、一切のメディアを断ち切って生活できるタイプの「強さ」を持った人間ではなかった。
せっかくテレビを捨てたのに、その隙間を満たしてもらおうとあわてて新聞やラジオにしがみついた弱き者。
そんな彼がかつてこれほど本物の野性動物の強さを尊敬したことはなかった。
彼らの世界には「戦争」も「災害」も「大惨事」もない。あるのはそれぞれの「死」だけだ。

震災後、多くの人が口にするようになった「絆」というものは絶対に自分とはつながっていない、と凛は思った。
どんなに優しく差しのべられていようと、かつて自分に石を投げた手を彼は握り返さないし、どうせ避難所には彼が吸う空気はないのだ。
震災の前から彼の世界は瓦礫の散乱する荒野だったし、彼の世界をそのように変えたものに飲み込まれたくはなかった。

あるとき凛が行きつけの店に買い物に行くと、普断彼が買っている安いパンが売り切れて一つもなかった。
彼はふと「パンがなければケーキをお食べ」という言葉を思い出して苦笑した。
「金持ちこそケーキを食えよ」と心の中でつぶやくと、たちまち頭の中に「自分こそがパンを買う」ことの正当性を主張し、攻撃し合う金持ちと貧乏人 家族持ちと独身者の表情や声がありありと浮かんできた。
「やっぱり俺にとって恐いのは地震や津波よりも人間だな」と凛は思った。

結局、彼に買えたのはスパゲッテイーとこし餡だけだったので、帰宅した彼はそれでおはぎのようなものを作って食べた。
それが王妃ならぬ社会に与えられた彼の「ケーキ」だった。






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