プライド主義社会と引きこもりの行方

坂根ミズキ







  私は来年53歳になる引きこもり当事者である。
  去年、ある支援団体のブログ*1を読んでいて、斎藤環氏が講演会で述べたというある言葉に私は膝を打つ思いがした。
  すなわち「旧世代は食うために、若者世代は承認のために働く」。
  私も大いに同感である。
  しかし、それならばなぜ、誰も労働という言葉について「承認を求める努力のすべて」と再定義しないのか。
  私が十数年前から抱いていたのが、まさにそのような疑問であった。
  現代社会はさまざまな価値観に基づく、条件つきの承認を巡る激しい競争の場である。
  たとえば「就職は義務である」という価値観の下で社会から求められるのは「自分は正社員である」というプライドを獲得するための努力であり、与えられるのはそれに応じた「あなたは正社員である。ゆえにあなたが生きること、幸せになることを許す」という条件つきの承認である。
「努力」という労働をし「プライド」という賃金を与えられ「承認」という糧を買う。
  我々の心がそのような経済活動に囚われた社会に対する危機感をかつて私は「プライド主義社会」という言葉で表し、引きこもり当事者が意見を交換できる場*2に訴えたこともあったが、誰も気の利いたレトリックに対する以上の関心を寄せてはこなかった。
  しかし人間社会が国際的な規模で殺伐化しつつあるようにも見える今こそ、私は人々の抱えるストレスとこのような社会構造の関係を確信せずにはいられない。
  さて、賃金を目的とする努力ばかりが労働ではないとすれば、現代においては家庭や学校もまた、例えば「勉強は子どもの義務である」「親は正義でありその権力は絶対である」「多数派に同調しない者は悪である」といった価値観に基づく労働の場に他ならない。
  しかしそのような「職場」で労働者の人権に対する配慮が充分になされていると果たして言えるのか。
  また、こうしてみると「引きこもり当事者は不当に怠けている」という常套的な批判にも疑いの余地があることが解る。
  引きこもり当事者の全部がとは言えないまでも、ブラック企業のような家庭や、いじめやスクールカーストの常態化した学校での長期にわたるタダ働きの挙句、すでに過労自殺寸前まで追い詰められ「引きこもる」という生活形態にようやく命をつなぐ道を見出した者も多いのではないか。
  また原因はともあれ一度ひきこもり当事者と見做されれば「プライド階層の最底辺にありながら不当に存在を許されている者」として「承認を剥奪(否認)」される宿命から自由ではあり得ない。
  しかしまず何より、社会に適応している人の側から引きこもり非難の声が挙がることは、彼ら自身がこのような社会に疲弊している証しであろう。
  引きこもりの社会復帰を目指す活動は、当事者のみならずこのような社会構造を対象として視野に入れたものでなければ、長期的に見て無効に終るのではないか。
  現に支援を受け復帰を遂げた引きこもり経験者が、現役の当事者に批判的な態度を示すことも多いとも聞く。
「引きこもりは矯正されるべき『非行』である」という価値観を彼らが依然として内面化しているせいだと考えれば、これも当然のことと納得できる。
  ともあれ、このような心の経済活動の結果、人間社会の殺伐化が進んだ理由を物質経済になぞらえて説明すれば「承認(食糧)を享受して生きる『消費者』であり、同時に承認を産み出す『土地』でもある自身の心をも、人間が農耕文明や資本主義の精神を以て『作物』や『商品』を生産する農地、工場へと変質させてしまった」ことにあるのではないだろうか。
  土地の生産力に限界があるように、人の心が他者を承認する能力にも限界があるのだろう。
  これを踏まえて引きこもり問題の解消あるいは軽減の方策を、ロマンチシズムとの批判は覚悟の上で私なりに考えてみたい。
  まず私が社会に期待するのは「自然に還る」ことである。
  といっても私は「山の中で豊かな緑に囲まれて生活せよ」などと言いたい訳ではもちろんない。
  疲弊しきった「心という耕作地」を「作物」や「商品」を生産する役割から解放し、太古の昔そうであったような「所有者なき山の幸」つまり「無償で無条件の承認」の湧きいずる豊穣の大地に還してやることである。
一例を挙げれば「常識的社会人」である兄の不満にもかかわらず、放蕩に金を使いこみ身を持ち崩した弟を両親が暖かく迎え入れたように、この無償で無条件の承認こそは、宗教や文学で繰り返し説かれてきた「真の愛」ではなかったのか。
  社会全体は無理だとしても、せめて家庭がこの「真の愛情の発露の場」という自からの機能への自覚を取り戻すことができれば、それだけでも軽減される問題は引きこもりだけにとどまらないのではないかと私は思う。
  次に、引きこもり当事者であるか否かを問わず個人にできることは何だろうか。
  それはある行為、努力の結果得られるものから承認を除外し得失相殺したときになお、幸せよりストレスの方が多いことに気づいたならば、それをきっぱりとやめ、労働を斎藤医師のいう「食うため」や「楽しむため」のものだけに限定することである。
  したがって働かずとも自分の満足できる生活が可能な境遇にある者は全く働く必要はない。
  現在の私はメディア上からも実生活の上の周囲からも、冷たい視線を感じながらこれを日々実践している訳だが「真の愛ある社会」が実現したあかつきには、これを非難する人はいなくなるだろう。
  他者を承認する自らの能力が極端に低下しているにもかかわらず、なおも承認を求める努力を要求する現代社会は「その被害者が自分を陥れた構造を自分の既得権益をかけて擁護し、存続させようとする」という点においてもネズミ講に似ている。
  さらにプライド主義経済の場合は会員に金銭的な損失を与えることがなく法的な制約を受けないだけに外圧による解散は簡単ではないだろうが、なんらかの形で破綻を来すのは時間の問題ではないだろうか。
  私だけでなく、私に石を投げる人の心の安らぎのためにも、その日が早く来ることを私は夢見ている。


*1:不登校情報センター・引きこもり居場所だより・2015年7月8日
*2:不登校情報センター・「ひきコミ」


inserted by FC2 system