シュンジ号壊れる
ある昼下がり、その箱は突然やって来た。
「シュンジ、ちょっと来てごらん」
いつになく嬉しそうな母の声に、何事かと階下へ降りてみると、上がり框に今届いたばかりの段ボール箱があった。だが母の笑顔からはまだその箱の中身が私にとっていいものか、イヤなものか読み取れなかった。
「何? これ」
「あなたの仕事よ」
「仕事?」
「言ったじゃないの、この間。うちでできる簡単な仕事ならやってもいいって」
「ああ……、で何なのこれ?」
「ほら、これ読んで」
母から受け取ったチラシらしき紙には『働く喜びが自宅で手軽に!』の字が踊っていた。
箱の中身はどうやら小型ミシンのような機械らしい。そうか、母は私に、これで内職をしろというのだ。
寝耳に水、まさに奇襲戦法だ。
仕方なく私は続きを読んでみた。『外出、人間関係が苦手なあなた、労働に意義が見出せないあなた、会社に就職するばかりが仕事ではありません……』。
どうやら表現は遠回しではあるが、引きこもりの若者を当て込んだ新手のビジネスらしい。まったく呆れるというか感心するというか。
しかし私は不思議なことに気づいた。どこを読んでもそれが何を作る機械なのかを書いてないのだ。
『一日短時間ハンドルを回すだけ』で収入になるという。私はその会社に疑わしい匂いを感じた。
「これいくらなの?」
「十七万八千円」
「エーツ! 何で相談しないんだよ」
「あんたに相談したって、なんだかんだ言って断わるだけじゃないの」
ダメだ。会社の信頼性を問題にしても、母には私が怠けたくてこの期に及んでなんだかんだ言っているだけにしか取られないだろう。
まあ、怠けたいのも事実だけど。
私の頭に不安が膨らむ間にも、母は待ちきれない様子で梱包を解き、機械を取り出そうとした。しかし、それは嵩の割に重くて持ち上がらなかった。
「部屋で出そう。オレが運ぶよ」
「そうね、ハイハイ」
その箱は私にも結構重かった。しかも母が変なところで箱を切ったために、余計運びにくい。階段を上りながら我々親子は、再び声を高くして詰り合った。
なんとか部屋に運び、中身を取り出したところで、私はまた驚かされた。機械の胴体にこれ見よがしに「SHUNJI」と刻まれていたのだ。
「ちょっと、これ……」
私は再びチラシをチェックした。『今なら三千円でネームをサービス』。先ほど見て失笑を覚えた箇所だ。
「何でネームなんか入れさせるんだよ」
「その機械あんたの分身じゃないの。働く自分に誇りを持てるようにって、ね? そういうことになら、親はお金なんかいくらでも出すんだから。あなたも心を入れ替えてちょうだいよ、ホントに……」
何が誇りだ。これじゃまるで嫌がらせじゃないか。
「こっ恥ずかしい」
「恥ずかしいのはこっちの方よ! 近所の人に会うたびに何て言われると思ってんの?『息さんは? 息子さんは?』って、みんな腹の底じゃ笑ってるわよ」
だんだん母の声はドスが利いてきた。
「あんたねえ、働いてないってどういうことか自分で解ってんの? あんた普通じゃないのよ! 人間じゃないの!」
怒鳴り終えると母は荒々しくドアを閉め、階下へと降りていった。
やがて夕食に降りた時には、私が
「いま取説読んでるよ。明日から始めるかな」というと
「そう」と母は機嫌を取り戻した。
九時には取説を読み終わり、おもしろい番組もないので、私はゲームに向った。こうして心おきなくプレイできるのも今日まで。明日から私は「何か」に縛られる。
連続してあの機械のハンドルを回せるのは数時間だというから、ゲームをする時間は減りはしない。
しかし私は明日から「縛られる」。
画面の中の分身が滑るように飛翔しながら、次々と降り注ぐ障害物を蹴散らすのを見るうち私は、自分の表情が和らいでいるのを覚えた。
そして、ふと頭に浮かんだ「あーあ、ゲームみたいにおもしろい仕事がありゃなあ」という本音の身もフタもなさと、うっかりそう口を滑らせた時の母の顔を想ってさらにニヤリとした。
しかし逆に言えば、どうして仕事ってヤツはゲームみたいに楽しくないんだろう。努力があり報酬がある。そこまでは同じだというのに。
もし仕事が人を幸せにするためにあるというのなら、私はむしろ仕事によって失われる幸せの方を取る。みんなこれら二つの幸せの質と量を計り比べた上で、自分の意志で選択しているのか。
自分にその自由があることを、果たして自覚しているのか。これは本当は大切な問題ではないのだろうか。
画面の中の月面のような荒野や、緑色の金属に覆われた大地と一緒にいろいろな考えが流れ、説明書が頭の中に残したもやもやを流していった。
とその時、母がドアを開けて覗き込み、機嫌のよさそうな声をかけてきた。
「どう?」
「はぁ?」
「ゲームなのね」
一転、穏やかながら不気味に低くなった母の声に、頭の毛穴がチリチリと緊張した。
母の降りていった後、私はゲームを中止し、なぜか音をたてぬようそっと機械の前に移動するとハンドルを回してみた。
「ガラ…ガラ…ガラ」と重い手応えがあった。
次の日の午前中から、私と機械との格闘が始まった。
機械は似たものを思いつく限りで挙げるなら、形といい重さといい、ちょうどミシンを前に倒したような代物だが、外側には動く部分がなく、上部に水平方向に回転するハンドルがついている。
かき氷でも作るようにそのハンドルを回すと、その回数がメーターに記録される。
メーターはカセットになっていて、月に一回取り外し、会社へ送り返すと、働きに応じて「給料」が振り込まれるのだ。
何の役に立つ機会なのかは相変わらずわからない。その代りに分かったのは、ハンドルの操作が意外に難しいことだ。
ハンドルは指でつまめるほどの大きさしかなく、内部で何か重いものが四角く動いているらしく妙な慣性が働くのだ。
そのリズムに合わせて回転させないと、すぐにすっぽ抜けて暴走したハンドルに指がはじかれる。ハンドルを指でしっかりつまもうとすれば、すぐ隣の突出部分との間に指を挟まれる。
日頃ゲームで鍛えた私の親指の爪が痛み出し、中指の皮が剥けるのにさほど時間はかからなかった。
そろそろ昼食かという時間に私がキッチンに降りると、野菜を炒めていた母が振り向いて尋ねた。
「どう? 簡単だったでしょ」
「いやー、あの機械の設計したヤツの顔見てみたいね」
私は母に手を見せ、事情を説明した。
「何よ、別になんともなっちゃいないじゃない」
「イテッ、何すんだよ」
「働く人の手っていうのはね、そういうものなのよ」
「あんなの仕事じゃないよ。何にも生産していないじゃないか」
「生産? 生意気なこと言ってんじゃないの。仕事っていうのはあなた自身のためにするものじゃないの。人が人であるために労働は絶対必要なんだから」
母の訓話を聞きながら昼食を食べ終えた私は自室に戻り、ゲームをしながら考えた。
母はああ言うが、同じハンドルを回すのならせめて、何かを作ったという実感が欲しい。コーヒーでも、擂りゴマでも、納豆でもいい。
そんなことを言えば母は待っていましたとばかりに、じゃさっさと納豆屋さんに就職しなさい、というだろう。
それも困るな。要するに私は自分が納豆を食べたい時にしか、グルグルかき回したくないのだ。
でも本来、仕事ってそういうものじゃないか。
作業の合間に時折、静まりかえったテレビのブラウン管に映った自分と目が合う。背を丸めて何の役にも立たない機械と向き合うみじめったらしさ。あんなところは絶対人に見られたくない……。
あれ? そういえば納豆屋さんは納豆かき回さないな。フフ……。
指を庇いながらのゲームは惨憺たるプレイで、私は早々にスイッチを切った。
この機械の構造にだんだん興味を覚え始めた私は、午後の作業を終えた後、分厚い金属の外装版の、ちょうど「SHUNJl」というネームの下に開いた指一本分ほどの隙間から内部を覗きながら、ハンドルをゆっくり動かしてみた。
メーターにつながる精巧な機械がガチャガチャと動く様子はやはりミシンに似ている。
なぜ何の役にも立たない機械にこんな複雑な構造を与える必要があるのだろうか。もともとまったく別の目的で作られた機械が、何かの事情で販売できなくなってしまった挙句の苦肉の産物か、あるいは……。
しげしげと眺めるうちに私はふと、ある可能性に気づいた。
これはひょっとすると、どこかの天才による非常にユニークな発明かも知れない。つまりこれは労働者そのものを作り出す機械なのだ。
内部の機構とそれを垣間見せる隙間からは、『おまえの行為の目的や価値は、おまえ自身には理解できないのだ』という、労働者順化の思想が伝わってくる。
思えば、操作しにくいのもワザとそのように設計されているのかも知れない。
『非常に精密な機械です。乱暴に操作しないで下さい』とか『あまり長時間操作すると破損の恐れがあります』などという、こちらの不安と当惑をかき立てるような注意書きも、要するに『おまえの体に害のない働き方はおまえ自身の体で覚えろということなのだ。
これが本当に、労働者製造機なのだとすると「自分を労働者にすること」が私の仕事ということになる。
合わせ鏡のような虚像の循環に目がくらんだ。
あの機械が我が家に来てからというもの、目に見えてストレスが増えた。
母と顔を合わせる度に口論となり、その合間にハンドルを回す。
父はといえば夜、職場から帰宅するなり母に尻を叩かれて、いちおう私に叱言を言うが、それは決して「お前のせいで、おちおちくつろぐことも出来ない」という恨み言の域を出るものではない。
こういう人は、いじめられて泣いている子供を見たら「うるさい、迷惑だ」と叱って、いじめた方の子供は不問に付すだろう。
母も父が本当は何にいら立っているかなんか気にしない。母にとって父は単に、私に圧力を加えるための機械なのだ。
そんな日々が続くうち、両親が嫌いになり、機械が嫌いになる。何よりも自分が嫌いになってくる。
また何が辛いといって、日毎に増す指の痛みのせいで、ゲームが全くできなくなったのが辛かった。
我慢してプレイすれば、習練の賜物であるコントロール技術をすっかり失ってしまった自分に愕然とする。私の分身たちは飛来する敵を避けきれず無様に衝突、次々と飛び散ってゆく。
あっという間にゲームオーバーという、あり得ない屈辱。沸き起ってくる怒りを一体何にぶつけたらいいのか。
作業を終えた私が、
「あーあ、イヤだイヤだ。指を痛めるための専用の機械がある生活ってのは」と皮肉たっぷりに言えば
「大変ね、あんたはゲームもしなくちゃならないしね」と母も負けてはいない。
「もうゲームなんて、1日に3分だってできやしないよ」
「そう、よかったじゃない。ゲームなんかしなくっても生きていけることがよくわかったでしょ」
「言っとくけど、オレの指は辛いことだけをするためにあるんじゃないからね。だいたい人を動かすにはほら、アメとムチっていうだろう?
ゲームができないんだったら、あの機械の方もどうしようかな」
「まさかあんた、もうやめるなんて言い出すんじゃないでしょうね。せめて元は取ってちょうだいよね。こっちは高いカネ払ってんだから」
「元取ったらやめていい?」
「じょ──だんじゃない」
「だってオレ、別に金なんていらないもん」
「だったら私に寄越しなさい。あんたの生活費にするから。ブラブラしないで自分の生活費ぐらい自分で稼ぐのよ。大人なんだから」
あのとき私は母に反論できなかったが、納得した訳ではもちろんない。水掛け論を恐れて母の前で飲み込んだ言葉は、部屋に寝転がり、風を入れるために開けた窓から、歪んだ四角の空を見上げると、形を得てあふれ出すのだった。
人間っていったい何のために生まれ、生きるんだろう。金を稼ぐため? 親は、人間は、金を貸しつけて金利を取るために子どもを生むのか?
労働しなけりゃ人間じゃないなんて、いったい誰が決めた? みんな? じゃあ、その「みんな」の中に私は入っているのか? ……ほら見ろ!「みんな」なんていうのは卑怯者が少数派を潰すためにでっち上げた看板じやないか。
働きたい人はいくらでも働けばいい。その代わり私のように「貧乏でもいい。のんびり生きたい」という者はどうかほっといて欲しい。怠け者にムチを振るわずにはいられないのは、ホントは自分も働くのがイヤだからだろう。
そんなことをしたって就労競争が激化して、損するのはかえって自分たちの方じゃないのか?
私の想いは、誰にも気づかれぬ風船のように、さらに空高く上がって行く。
観念の世界にしか存在しない幻を自分の主人に祀り上げ、自からはその家畜へと進化を遂げた人類という生き物の中にあって、私という個体は先祖帰りした少数派なんじゃないだろうか。だとすれば、淘汰される運命は避けられないのだろう。
私のような存在を駆除した後、みんなが仲良く生きられるというなら、百歩譲ってそれでよしとしよう。私が言うべきことは何もない。
しかし、現実はそうではあるまい。幻に帰依する競争に負けた者たちを踏みにじりながら、家畜への進化はこれからも暴走し続けるのだ。私が消された後、次に踏みにじられるのは自分かも知れないというのに、みんな、それでいいんだろうか?
それにしても、あーあ、ゲームやりてーなあ。
私と母の我慢がいよいよ限界を越える時がきたのは、作業を終えた私が、会社から送られてきた新品と交換するために、それまでの回転数が記録されをメーターのカセットを外し階下へ持っていった日のことだった。
一息つこうとミルクを飲み始めた私の背後で、母が不意に叫んだ。
「何よこれ! え? 全然回ってないじゃないの、メーター!」
「回ってるよ」
「こんなんじゃ、恥ずかしくて送り返せやしないし、だいいちいつまで経ったって元なんか取れやしないじゃない!」
「だからぁー、それはね、誰がやっても同じようなものなの」
「嘘つきなさい。あんたブラブラしてばっかじゃないの、え? 他の人はみんな一日中働いているわよ!」
「一日中あんなバカな機械のハンドル回してるヤツなんかいる訳ないだろ!」
「そんなこと言ったって、あんたがそれしかできない人間なんだからしょうがないでしょ」
「ちゃんと取説に書いてあんだよ! 数時間以上回したら壊れるって!」
「そうやって自分に都合のいいことばかり言って! どうせあんた仕事するフリしてゲームばかりやって遊び呆けてたんでしょうよ! そんなにイヤなら止めちまえ! ぐうたら!」
「やりゃいいんだろ!」
飲みかけのミルクごとコップを床に叩きつけて割ると私は、母がテーブルに放り出したカセットを掻っ攫い、自室へと駆け上った。
そして母にも立てられないような爆発音が響くようにドアを閉めた。
「見てろよ!」
私はまず、母が目の敵にしているゲーム機を振り上げると、テレビの角に一撃し、畳の上に放り出した。そして一目で使用不能とわかるそれに目で別れを告げた。
さようなら、私の分身。これは私が家畜になるための小さな自殺なのだ。
そして私は作業席につき、カセットを再装着した機械のハンドルを回し始めた。母よ、笑いを忘れ、働くためだけに生き長らえる機械になり下がった息子を見て、明日からはせいぜい喜ぶがいい。
ハンドルを力任せに回すと、中で生き物が暴れているような反抗的な手応えはすぐに消え、それまでは起きなかった回転運動への慣性がみるみる加速をつけ始めた。
なんだ、自転車と同じじゃないか。最初からこうすればよかったのだ。なるほど『タテマエ通りに仕事をするな』という訳か。突っ走れ!シュンジ号!
母にぐうの音も出なくなる数字を突きつけてやるのだ。
やがて私の額には汗が浮かび、不思議なことと爽快感すら湧いてきた。あれほど鬱陶しかった指の痛みもなぜか感じない。
そうか、これが働く喜びというものか。よし、本日第二の教訓は『仕事のストレスは仕事で解消しろ』だ。
しかし数分後に異変は起きた。「カラララララ」という軽快な音が「ガッ!ガリッ!ガリッ!ガガガガガガッ」と変ったので、スピードを落とさねばと思いながら、機械を覗き込んだその瞬間、「バキーン」と唸りを上げて鋭くねじ曲った金属片が隙間から私の顔目がけて飛んで来たのだ。
殴られたようにのけ反りながら上半身を捩じると、私は畳に手をついた。呻き声が漏れる。
ふと、右手の上になにかが落ちるのを感じて私は目を開けた。血だ。また一滴。傷は左の眉のわずか下だ。直撃は辛うじて逃れたものの、瞼越しに撃たれた眼球の痛みもただごとではなかった。
私は「っつーッ!」と歯の間から息を吐き出した。
やがて異常を察して上がって来た母も、さすがにショックを受けたのか、この時ばかりは言葉もなく、ムスッとした様子ながらも機械にカバーをかけることで、
私にこれ以上労働を強制する意志がないことを示すのが精一杯のようだった。母の沈黙に満足した私は心の中で叫んだ。
「ざまあみろ! 機械はぶっ壊れた。オレは怪我はしたが、まだ生きている。この勝負オレの勝ちだ」
容赦なく滴り、畳を汚す血を受け止めるため、咄嗟に私はそばにあった紙に手を伸ばした。それは機械の説明書だった。
あれからひと月余りになるが、私の左の瞼についた傷はまだ消えない。疲れた時など不自然な二重になって見苦しいが、今の穏やかな生活を勝ち取るための戦いで得た勲章、ということにしておこう。
父はもちろん母も愛想が尽きたのか、もう何も言わない。私はゲームなき今、右上の角が欠けたテレビで、大して面白くもない番組を見るだけだ。
それにしてもゲームはよかった。私の分身が与えてくれた報酬は達成感や充実感、それに美的快感、だから努力も純粋なものだった。
だが今のところ、私にゲームを再開する意志はない。
新たにゲームを買って母の冷たい視線を背にプレイしをところで、借りでも作っているようでどうせ落ちつかないに決まっている。
そのうち金もエネルギーも使わないゲームなんていうのが見つかれば、私も夢中になるだろう。
ところで今日、意外な発見があった。押入れの奥に壊れたアイツがあったのだ。使い途も決まっていない金を求める努力を強制する下品な「吸血」調教機械。
母がさっさと送り返しも捨てもせずに、罠でも仕掛けるみたいにあれを仕舞い込んだのは、一体なぜだろう。
そんな疑問も浮かんだが、そんなこと怖くて聞けやしない。こちらも気づかなかった振りを続けよう。
そのうち母自身も「SHUNJl」の存在を忘れてくれるに違いない。