──母の思い出・個人製作版──
坂根ミズキ







      
目次



  スタン ・・・・・・・・・・・・・・・・・#1

  書き取り・手紙 ・・・・・・・・・・・・・#2

  喧嘩する両親の絵 ・・・・・・・・・・・・#3

  外遊びと母 ・・・・・・・・・・・・・・・#4

  流血事件 ・・・・・・・・・・・・・・・・#5

  歯医者の帰りに ・・・・・・・・・・・・・#6

  失神 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・#7

  行儀作法 ・・・・・・・・・・・・・・・・#8

  風邪 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・#9

  夏休みの宿題 ・・・・・・・・・・・・・・#10

  叔母一家のこと ・・・・・・・・・・・・・#11

  暗殺者 ・・・・・・・・・・・・・・・・・#12

  憲法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・#13

  自分と出会う ・・・・・・・・・・・・・・#14

  受験 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・#15

  大学生活 ・・・・・・・・・・・・・・・・#16

  引き籠もり ・・・・・・・・・・・・・・・#17

  家庭内暴力 ・・・・・・・・・・・・・・・#18

  家出旅行 ・・・・・・・・・・・・・・・・#19

  薬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・#20

  M先生の思い出 ・・・・・・・・・・・・・#21

  茸狩り ・・・・・・・・・・・・・・・・・#22

  父の背中 ・・・・・・・・・・・・・・・・#23

  精神科 ・・・・・・・・・・・・・・・・・#24

  Yさんへの手紙 ・・・・・・・・・・・・・#25

  あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・#26

  エッセイ2編

  袋吊り「収納」 ・・・・・・・・・・・・・#27

  テレビゲーム ・・・・・・・・・・・・・・#28

  個人制作版あとがき「夢―30年目の和解」・・#29

   







   スタン

我が家には、母が洋裁をやっている関係で「スタン」とよばれるものがあった。
どんなものかといえば、作りかけの服を着せるためのハリボテの胴体で、頭や手足はなく、腰から下も一本足の鉄製スタンドになっている。
首についた木製の蓋を見ればたいていの人が、「ああ、デパートなんかにあるやつね」と思い当たるであろう。
幼い私は、このスタンが怖くて仕方がなかった。
夜はもちろんのこと、朝や昼でさえそれのそばにいるだけで、恐怖で体がこわばったのを憶えている。
母が作るのはたいてい婦人服だったので、我が家のスタンも婦人服用で、体の線からもそれが「女性」であることは明らかだった。
首についた丸い飾り蓋にはちょうど取っ手のような丸いものがついており、幼い私にはどうしてもそれが人間とはかけ離れた「何か」の顔に見えた。
別にそれは、われわれがふつう思い浮かべるような恐ろしい顔を連想させるものでは全くなかったにもかかわらず、当時の私には直視することさえできぬほど恐ろしいものだったのである。
夜はほとんど毎晩のようにスタンが夢に現れて私をおびえさせた。
そんな私を見て周りの大人たちは、子どもは妙なものを怖がるものだと、さぞ奇妙に思ったに違いない。
父などはいたずらっ気を出して、まるで腹話術師のようにスタンの口をパカパカと動かして見せたりした。
そんな夜はたちどころに、父がスタンを何台も並べて得意気になっている夢を見たりした。
ちょうどそのころはまた、母がー番厳しかった時期でもあったように思われる。
私は毎日のように何かヘマをやらかしては叱られていたが、怒った母は本当に怖かった。
血相を変えて手をふりあげる母に私はいつも部屋の隅に追いつめられて、泣き叫びながら謝ったが、別に自分の非を認めた訳でもなく、ただ痛みと恐怖から逃げたい一心だったので、今にして思えばおそらくよけい母の怒りの火に油を注いだのであろう。謝れば謝るほど強く叩かれたような気がする。
しかし私にできることといえば、やはり頭を抱えてひたすら謝る以外になかったのだから仕方ない。
私が叱られる理由はといえば、それは些細なことであった。
例えばある日こんなことがあった。
私が通っていた保育園では、給食で使うプラスチック製の食器は各自の家庭で管理することになっていた。
園児は朝、食器をカバンに入れて通園バスに乗り込むのである。
ところがその日の給食の際、いくら探してもお茶用のコップがカバンの中に見当たらない。
そこで私は先生に「コップがありません」と言い、結局予備のコップでお茶を飲ませてもらった。
ところが帰宅した私のカバンを母が改めていると、使用した形跡のないコップがちゃんと出てきたのである。
私がよく探さなかったために、母が入れてくれたコップを見落していたのだ。
さっと形相を変え、詰問する母に私は半べそ状態で一部始終を説明したが、「コップがありません」と言ったことを話すと、母は踊りかかって私を叩いた。
あとは例のごとくであった。
当時の母は「私は子どもに不自由な思いはさせていない」という自意識で頭が破裂しそうな状態で常にピリピリしており、周囲の者を残らず敵視していたように見えた。
そんな母にとってはこのような、親の不手際と誤解されかねないようなことは、さぞや耐え難い苦痛だったに違いない。
今考えれば判ることだが、当時の私にはしばしば叩かれる理由が全く理解できなかった。
おそらく母自身にも解っていなかったのではないだろうか。
こんな日は夜眠りにつくとスタンが針を持って追いかけてくる。
その度に私は寝床の中で足をもつれさせて逃げ回っていた。


   書き取り・手紙

母は毎日私に五十音の書き取りを命じた。
当時私が怒られた原因のうち、かなり多くはこの書き取りが占めているはずである。
折りたたみのテーブルが出され、それをはさんで私と母が正座するといよいよ授業の開始である。
私は母が自らお手本を書いて教えてくれる字を母が見ている前で覚えなくてはならない。
しかし、大人には一度で覚えられるほどの簡単な字でも、子どもにとっては大人が想像する以上に難しい、という事実すら、教えるのに夢中になった母は忘れてしまうようであった。
あるいは、母自身は当時の私より幼いころに平仮名などはすっかり覚えてしまったそうだから、その血を引く私も当然、同様であるべきだと思ったのかもしれない。
しかしあいにく私は母ほど頭がよくなかったのでいつも母を怒らせ、最後はいつも涙と嗚咽でグチャグチャになるのが常であった。
しかし言わせてもらえばテーブルの向こうで、竹の物差しを握る母の声が苛立たしげに高くなり、眼もだんだんと吊り上がってくるというのは、決して学習に適した環境ではない。
ともあれ私は苦心の末なんとか平仮名五十音を書けるようになった。
せっかく字を覚えても使わなければすぐに忘れてしまう。という訳で母は次に保育園の先生に宛てて手紙を書くことを私に命じた。
私は別に手紙を書きたくなかったし、書くべきことも思いつかなかったが、ありがたいことに、いかにも子どもらしい文章を母が口述してくれた。
伯母あてに「クリスマスかいにほんとうのサンタクロースがきました」という手紙を書かされ、子ども心にも後ろめたい思いをしたこともある。
保育園には「せんせいおげんきですか、ぼくはしらゆきひめのえいがをみました」という手紙を書いた。
しかし五十音は一応覚えたとはいえ、まだ下手な字しか書けぬ私は簡単な手紙一枚すら母をカンカンに怒らせずには書き上げることができず、最後にはやはり必ず、ボロボロに泣く羽目になるのである。
母は私の字を「変な字、病気の字」だと言い、それらの字や書いた私に対する軽蔑や怒りをことさらにいろんな表現を借りて表した。
言われてみればなるほど、私の字は確かにどれも変な顔をして、私と一緒にボロボロ泣いているようでかわいそうに思えた。
「誰でも幼い頃は下手な字しか書けないのだ」という言い訳は当の幼い者に思いつくはずもないし、そのような理屈が興奮状態にある母に果たして通じたかどうかも解らない。
とにかく当時の私にできることは泣くことと謝ることだけであった。
しばらくして、「しらゆきひめ」の手紙は教室の壁に張り出された。
私は手紙を見ていた子と一緒に「なんだこりゃ、へんなの」と笑った。
私がそれを書いたことは知られたくなかった。


   喧嘩する両親の絵

両親はよく喧嘩をした。
しかし不思議なことにそのことで私が嫌な思いをした記憶は全くない。
ただ奇妙なことに私は、幼い頃から自分は結婚しない人間であると信じていたが、これはひょっとすると両親の喧嘩と何か関係あるのかも知れない。
以来、現在に至るまで男性に対し女性に勝る魅力を感じたこともないかわり、結婚に憧れたことも一度もない。
私は黒い服を着てどなりながら殴りあっている両親の絵を描いたことがある。
子どもの絵からその心理状態を分析する人が見たら、喜んで取り上げそうな絵である。
しかしこんな絵を描きながらも私は、自分を不幸な子どもだと思うようなことはまったくなかった。
実は私がこの絵を描いた直接の動機は、通っていた保育園のお絵描きのときに誰かが描いた運動会の競走の絵である。
その絵に描かれていたのはスタートラインに立った4人の人物であったが、皆同様のクランク状の腕をしており、一目見てこの表現がとても気に入った私は、自分も同じような絵が描いてみたくなったのである。
幸いごく身近に「クランク腕の人物」のモデルに相応しい人物がいる。
それが喧嘩する父と母であった。
この絵を父に見せたところ、「何だこりゃ、おとうさんもおかあさんもこんなじゃないよ」と一蹴されてしまった。
たしかに私が描いたような殴り合いを両親が演じた事実はない(母が父に豆腐を投げつけたことはあるが)。
自分のトンチンカンな間違いが恥ずかしくなって絵は母に見せずに捨てた。
それはまた悪趣味をとがめられたような気がして、子ども心にも少しバツの悪い思いをしたためもあったかも知れない。

(追記 この頃の私がなぜ不機嫌になった両親に八つ当たりされながらも彼らの喧嘩を嫌がらず、むしろ心密かに喜んでいたのか、やっと理解できるようになった。
要するにそれが私にとっては「家族3人のうちで自分だけが嫌われている訳ではない」と実感し安心できるよい機会だったのである。
これとは逆に、たとえ上機嫌であっても両親が私に対する好ましくない感情を共有している時には、私は強い悲しみと苛立ちを覚えたのを憶い出す。)


   外遊びと母

母自身は子どもの頃あまり友達がいなかったようである。
そのため私には「外で友達と遊びなさい」とうるさく命じたが、私は嫌で仕方がなかった。
近所の子どもたちの多くと私は、楽しい時間を分かち合うには、お互いに全く向いていないように思えたし、私は絵を描いたり本(おもに図鑑だが)を眺めているほうがずっと楽しかったのである。
しかしむっつりと黙り込んでそんなことをしている私を見る母の目がだんだん険しくなってくると、私も家を出て行かないわけにはいかなかった。
誰も近所に見当たらないときは仕方なく一回りして帰ってきた。
そんなとき、母は私をにらんで立ち上がったが、玄関の外まではさすがに追いかけてはこなかった。
たまたま近所の子どもが通行人に石をぶつけていたり、ヒキガエルの腹を針金で裂いたりしているのに出会うとそばで見ていた。
ただ彼らが人家の汲み取り口を片端から開けて覗き始めたときばかりは、こみ上げてくる吐き気をこらえることもできず、その場を逃げ出したものである。
残酷さこそ健全な子どもの属性だと思っている人には、幼い頃の私のような子どもがひ弱に見えるだろう。
確かに私は間抜けともいえるほどお人よしだった一方で、人一倍神経質な子どもでもあった。
よく言えば、感受性の豊かな子どもではあったといえるかもしれない。
そんな私を好意的に評価してくれる人が親戚にはいたようであるが、残念ながら母は大違いであった。
理由は何であれ一人で遊ぶ私を見るのは、おそらく昔の自分を見せつけられるようで耐えられなかったようである。
母がイメージする健全な子ども像とは、いつも太陽のもとでたくさんのお友達と朗らかに大声を上げて跳んだり走ったりする、昔の絵本に出てくるような子どもである。
もちろんときには喧嘩ぐらいした方が、元気な子どもらしくてよいのである。
一度、私は近所のある子どもと拾った鉄板の取り合いとなり、相手は指を少し切って泣きながら帰った、ということがあった。
しょげかえって帰宅した私からその事情を聴きだした母は、よほど嬉しかったとみえ、「そうかそうか」と跳び上がらんばかりの喜びようで、頭までなでてくれた。
しかし先方の母親がどなり込んできて、さんざん怒鳴り散らして帰ったあとでは、顔をこわばらせ、ため息まじりに「相手に怪我をさせてはいけません」というのであった。
しかし母の言うことを聞いていたら喧嘩などまず起こるはずがない。
ちょっとでも他家の子どもと言い合いになったり、何かの取り合いになったりすると、すぐに母は恐ろしい形相で私を威圧するのである。
子ども同士の意見が対立すると必ず他家の子どもに味方し、お菓子に半端ができると必ず他家の子どもに与える。
是非はともかくそんな母に私は、正直言って大いなる不満を持っていた。
ある日私は近所の子ども二人と遊んでいた。
畑の傍らにモミガラの山があったのでお互いにぶつけっこをして、はしゃぎ回っていたら、そのうち女の子が倒れたので私ともう一人の男の子とでモミガラをかぶせて埋めてしまった。
女の子が起き上がって私たちを追い回し、私たちは家の回りを逃げ回った。
終始三人とも大はしゃぎで、遊び終った私も上機嫌で家に帰ったのだが、子どもらしく遊んできた私をなぜか母は怒って「女の子を追い回してはいけません」と言った。
それがなぜか私には解らなかったし、第一追い回されていたのは私たちの方である。
しかし母は私の言い分は絶対に信じようとはせず「私は窓から見て全部知っているんだからね」とまで言い出す始末で、ついに母の異様な確信は揺らぐことはなかった。
またある日、今度は男の子ばかり数人で遊んだときのことである。
他の遊びに飽きた私たちはドロ団子を作り始めた。
ドロ団子は真面目に作れば結構美しいものなのでみんなが夢中になった。
ある子どもが作ったものは形もかなり球体に近く、あたかも鉄球のように青黒く光った綺麗なものであった。
幸い私が頼むと、その子は気前よくそのドロ団子を私にくれたので、家に帰る時も私は上機嫌であった。
そこでやめておけばよかったのに私はその話を母にも話した。
母は冷たい笑いを浮かべて、
「どうしてその子がドロ団子をあんたにくれたと思う?」と聞いた。
「どうして?」と聞き返すと、
「それはあんたが馬鹿だからだよ。そうでなきゃドロ団子なんかくれる訳ないじゃないの。あんたはみんなに馬鹿にされているのよ」と言った。
私は子ども心に何と不愉快なことを言う親だろうと思い、何もわかっていない母にドロ団子の素晴しさを説いた。
しかし私が何と言おうと、母にとってドロ団子とは軽蔑の象徴以外の何物でもあり得ないのであった。
「今頃みーんなが笑っているわよ。あの子は自分バカにされていることもわからないんだってね」
結局母のあまりの頑なさに、私は反論を諦めざるを得なかった。
このように、口を開けば「外で友達と遊びなさい」と言う母も、実際は私が外で遊んでくるたびにストレスをためこむらしかった。


   流血事件

ある日、私は家のすぐ近くで近所の悪ガキどもに取り囲まれた。
4、5人いた相手のうち年下の子を含む3人はよく知った顔であった。
彼らはちょうど誰かにぶつけようと思って石を拾っていたところだったらしく、偶然通りかかった私めがけて石を投げつけてきたのである。
情けないことに私は彼らに石を投げ返すでも相手の一人に飛びかかるでもなく、母に助けを求めて泣きわめくばかりであったが、その母は運悪く近所に用事があって家を留守にしていた。
私の顔は額から流れ出る血ですぐに真っ赤になったが、幼い子どもとは残酷なもので、そんな私を見て余計興奮した彼らは口々に「死ね」とか「殺しちゃえ」などと叫ぶのであった。
しかしこちらも死を恐れるにはあまりに幼すぎる年齢である。
ただ単に傷の痛さと悪ガキ怖さに、ここぞとばかりに声を上げて泣きわめいた。
結局その声を聞きつけて私を救ってくれたのは近所のクリーニング屋のおばさんであった。
さいわい出血のわりに傷も浅く、応急処置だけで医者へも行かずに済んだ。
この一件について私の親がどう思い、何を言ったか、何も言わなかったかについては、私は一切憶えていない。
石を投げた悪ガキの一人は、私と遊んでいて指を少々切っただけで母親がどなり込んできたものだが、私の親はたとえ私がもっと深い傷を負っていたとしても、先方に怒鳴り込むようなことはしなかっただろう。
中流コンプレックスにこり固まった母は、金持ちやインテリには猛烈に敵意を燃やす一方で、つき合いのある少数の人を除いて隣近所の住民を見下しているようなところがあり、陰では常に誰かの悪口を言っていた。
そんな気持ちが向こうにも通じるのか、隣近所の「庶民派」主婦も、私の母を嫌っていると思われるふしもなくはなかった。
私自身はかなり大人しい子どもであったにもかかわらず、母や私に反感を持っている大人から、大袈裟かつ聞こえよがしにちょっとしたことを騒ぎ立てられることもあった。
たとえば、砂場で遊んでいる時に風が吹いて、私の風下にいた子どもの眼に砂が入ったときにも、母の耳に入るのは、私がその子どもをつかまえて目に無理やり砂を入れたかのような噂なのである。
私の言い分を何一つ信用しない母はこのようなデマは鵜呑みにした。
この頃の私はどうも母と近所の確執に巻き込まれ、とばっちりを被っていた、という一面も少なからずあるように思えてならない。
一方、幼い子どもは屈託のないもので、顔面血まみれ事件の後も、むこうは悪びれることなく、こちらも懲りることなく、次の日には一緒に遊んでいたりするのである。
額の傷を手当てしてもらった私が外に出ると悪ガキの一人は驚いたように「まだ生きてやがるぞ」などと叫んだ。
私も「俺は不死身だ!」ぐらいは言っておくべきであった。


   歯医者の帰りに

歯医者へ行くのが好きだという人はあまりいないと思うが、私も歯医者が大の苦手であった。
ある時などは、治療中の歯医者の手をつかんで事もあろうに「よせよ」などと口走ってしまった事もある。
私はそのとき今にも泣き出しそうな顔をしていたに違いない。
憶病な子どもがおびえきっているときにこのような態度を取るのは珍しいことではない。
当然医師は怒りかつ呆れて「よしてやるからお前なんか帰れ」と言ったものである。
歯医者にちなんだ思い出の中でいちばん鮮明なのは、数日間にわたる治療が終了し、晴れて我が家へ帰る時のことである。
冬のことでふわふわのコートにくるまった私は母に手を引かれ、もう片方の手に、歯医者を出るとすぐに母が買ってくれたジャムパンを持って、声を上げて泣きながら歩いた。
私は泣いていたが幸せな気分であった。
この時ほどやさしく、また頼もしい母を私は思い出すことはできない。
店もまばらな幹線道路のとなりには農業用水路を隔てて冬の畑が広がり、その向うには団地の建物越しに、国道や高速道路が交差する丘陵地の冬木立ちがかすんでいたはずである。
そんな平和な光景の中を歩きながら、「ジャムパンおいしい?」と顔をのぞきこむ母に、私は泣きじゃくりながらうなずくのであった。
母は「早くみんなのところへ行きましょうね」などとも言った。
そうか、何と驚いたことに、恐るべき試練に耐えぬいた私を祝福するために、親戚一同が密かに我が家に集まってくれたのだ。
親戚が訪ねてくる時が何より嬉しかった私は、彼らの優しい笑顔を一人一人思い浮かべては心を躍らせた。
途中、母と私は、私が欠席した理由を報告するために保育園に寄った。
中ではふだん通りほかの園児たちがクレヨンで絵を描いたり、カスタネットを叩いたりしているはずである。
先生と話すために建物に入っていった母を外で待ちながら私は思った。
歯医者にも保育園にも行かなくて済んだらどんなにいいだろう。
実際そのような日もないことはなかったが、所詮、それはたまにしか扉を開くことのない天国であり、待ち焦がれたとしてもいつ訪れるとも知れぬ特別の日である。
ともあれ今日私が乗り越えるべき苦しみはもうすでに乗り越えたのだ。
早く母と手をつないで親戚たちが待つ我が家へ帰ろう。
ところが待てども母は来なかった。
実は母は私に気づかれぬように裏口からこっそりと帰ってしまっていたのである。
みんなの所へ行く、という母の言葉が保育園の不良どもと残りの授業を受ける、という意味であったと知って、私は愕然としたのを憶えている。
甘い夢を吹き飛ばされた私は、まるで注目してくれといわんばかりに一人だけ私服で泣きわめている私をおいて、一人さっさと帰った母を恨まずにはいられなかった。
母は別に私を騙すつもりではなかったのだろうし、すべては私の勝手な誤解が生んだ悲劇かもしれない。
しかしこのときの「やられた!」というショックが、その後の私の性格、ことに母という人物や自分の人生に対する私の見方に大きな影響を与えたこともまた残念ながら事実である。


   失神

Yさんという母の友達が千葉の内房に住んでいる。
小1の夏休みに我が家は、このYさんのお宅に招待して頂いたことがあった。
Yさんのお宅には、私とほぼ同年の子を頭に男の子ばかり3人の兄弟がいる。
当時母はよく私を叱る時、YさんのうちのMちゃんやPちゃんをご覧なさいと言っていたものである。
子どもの頃からの友達であったYさんに、同じ年頃の子どもを持つ母親として、強いライバル意識を抱いていたに違いない母はYさん宅でも、普段より神経質になっているようであった。
両家族は、海水浴や虫取り、また山に登ったり、漁船に乗せてもらったりと忙しくも楽しい毎日を過ごしたが、母は内心Y家の子どもたちと出来の悪い我が子の差ばかりに頭を悩ませ、楽しむどころの心境ではなかったのだろう。
母は何の前触れもなく私を無視し始めた。
自分が嫌われ始めたことにまだ気付いていない私は、普断通りに話しかけたが、母はそのうち私が近づくと背を向けるようになり、私を当惑させた。
両家族そろって海水浴をしていたあるとき、私はいくら呼びかけても聞こえないふりをする母についに怒りを爆発させ、「お母さんってば」と怒鳴ると、座っていた母の肩を膝で押した。
その瞬間、母は一番嫌いな動物に触られでもしたように、ぐにゃりとその場に倒れ気を失ってしまったのである。
当然一同騒然となり、Yさんは救命隊を呼ぼうと言った。
救命隊の世話になるような目に母を合わせてなどいないことをわかってもらいたくて、弁解の言葉を探すばかりの私に代わってだれかが走り出した時、母はまるで何もなかったように起き上がり、騒ぎはそれ以上大きくならずに済んだ。
Yさんは母の疲れがたまったせいだと思ったらしかったが、前後の態度や表情の不自然さが印象に残っている私にはどうしてもそうは思えない。
母は私にはわからない何かの理由で私にウンザリし、できることなら私をいないものと思い込みたい気持ちと、恥ずかしくない家族を演じなければ、という思いを爆弾のように抱えている時に、もはや無視することのできないくらいの大きな声で私に呼ばれ、触られたので、失神するしかなかったのだろう。
確たる証拠があるわけではないが、真相がどうであれ、それが一番自然な解釈だと思っている。


   行儀作法

教育熱心な母は勉強と同じくらい行儀にも厳しく、まるでサムライの生まれ変わりか何かのように、口を開けば二言目には恥、恥といった。
他家の人に何かをご馳走になるときに絶対に気をつけねばならぬことがある。
 一、一度は遠慮する。
 二、二度以上「おいしい」とは言わない。
 三、ゆっくりと食べる。
 四、お替りをすすめられても断わる。
以上の心がけを守らねば母は必ず怒る。
なおこの教訓は、私が自分の苦い経験から導き出したものである。
特に気をつけねばならぬのは、姑、つまり父方の祖母にご馳走になる時である。
かつて祖母が甘納豆を手土産に訪れた時、幼い私は先の四か条にことごとく背いた。
 母にうながされるまで「ありがとう」とも「いただきます」ともたぶん言わず、すすめられるままにバクバクと食べ「おいしい、おいしい」と何度も言い、恐らくは「もっとちょうだい」などとも言ったのだろう。
夕方になって祖母がいとまを告げ、表通りへ出る路地を笑顔で手を振りながら帰るのを、母と手をつないで見送る私はすでに泣いていた。
母が笑顔で祖母に手を振り返しながらも、もう一方の手に私の手を握りつぶさんばかりの力を込めていたからである。
傍らで見ている人には気づかないが、こういう時は直後にきびしいお仕置きが待ち受けているのである。
理由の思い当らぬお仕置きは珍しいことでもなく、当時の私は不当にも感じなかった。
私は小学校に入ってからも同じ過ちを何度か犯した。
父の実家で鉄板焼きをご馳走になったときのことである。
私はあろうことか「こんなおいしいもの食べたことない」とまで口走ってしまったのである。
帰り途で母はねちねちと私を非難した。
「乞食の子みたい」「我が家の恥」「みんなに笑われていたじゃないの」などなど。
しかし私は確信している。
あの時みんなは、私の子どもらしい大袈裟なお世辞に笑い、自分たちのもてなしが客に喜んでもらえたという嬉しさに笑ったのである。
自から認めるのも悲しいことだが、私は確かに意地汚い人間かも知れない。
しかし、思うにもう少し母が食べ物に大らかな雰囲気であったなら、私も少しは母の理想に近づいてお上品な人間になっていたかもしれない。
幼い頃から私の食生活は厳重に管理されており、常に満たされぬ食欲を抑えていたように記憶している。
リンゴを一個まるごと食べられるようになったのも、卵を三個使ってオムレツを作る自由を大議論の末獲得したのも、二十歳ちかくなってからのことである。
一方、幼い頃から欲しがるお菓子は買い与えられ、果物は食べ放題の家で育った親戚の子たちは、私から見ればまるで福の神のように気前よく、自分の所有する食べ物を他人に分け与える。
私は小2の時、習い事の関係で土曜日に昼食をご馳走になる友達の母親に、「おどおど顔色を窺うところあるんじゃない?」と言われた(と母に聞かされた)ことがある。
このようなことを他家から指摘されることもやはり恥を考えたであろう母は私を叱ったが、さりとて私には心当りもなく、どうすればよいのかもわからず、大いに当惑したのを憶えている。
行儀作法というのはつくづく難しいものである。


   風邪

体が弱かった私はよく風邪を引いた。
残念ながらやさしく看病してもらった思い出よりは、母の目に障らぬように小さくなっていた思い出の方が多い。
実際風邪をひくことは大袈裟にいえば、我が家では罪悪であった。
私が風邪とわかると母は怒りを爆発させ、「精神がたるんでいる証拠だ。罰として普段の倍勉強しなさい」などと言った。
その他「学校を休むならオジヤとクズ湯しか食べさせないからね」とか「テレビも本も見ちゃだめ、もちろん絵も描いちゃだめ」とかあの手この手で私の「疾病利得」を消却しようとするのであった。
私の場合、夏休みの旅行で疲れがたまると、家に帰る途中で急に症状が出て風邪とわかることがよくあったが、妙なことにこんな時の母の方が、学期中に発症して学校を休まざるを得ない時より恐ろしかった。
母は電車の中でも構わずもの凄い形相で、頭痛や吐き気と戦う私を睨み続け、「お前は人間のクズだ」などと言いさえしたこともあった。
私自身には何の故意もなかっただけに、この言葉には悲しい思いをしたものである。
怒りにまかせて母が次々と吐き出す言葉を聞くにつれ、当時の私にも母が本当は何故母が怒るのか理解できた。
「遊び放題、怠け放題の挙句風邪なんかひいて。辛いことから逃げようったってそうはいかないんだからね」
小さい頃、やはり学校が大嫌いだった母は熱を出せば学校を休めると思い、焼き芋に体温計を突き刺して破裂させたことがある。
私の経験からも母が嘘つきである、という事実は否定しようもない。
だから母は誰のことも信用できないのである。
息子の私もほとんど常に信じてはもらえなかった気がする。
しかしそれは正しい判断だったであろう。
私もまた母と同様の嘘つきだからである。
風邪の時も母のような無茶さえしなかったが、体温を水増ししたことは一度ならずある。
だがそのことを後悔したことはただの一度もない。
子どもを母や私のような悲しい嘘つきにしたくなければ、親は嘘をつくことを禁じるよりも、子どもが嘘をつかざるを得なくなるような追い詰めかたを決してしないことであろう。
そのような意味では登校拒否が子どもの選択肢の一つとして認められ始めている現在の状況も、起こるべくして起きた変化の現れのように私には思えるのである。


   夏休みの宿題

教育熱心な母にとっては、夏休みは重要なイベントであったらしく、心浮かれる私は「成績は夏休みで差がつくんですからね」とよくクギを差された。
だから私は夏休みの間中宿題をほったらかしにして休み明けに先生に叱られる、などどいう経験は一度もしたことがない。
学校の先生より厳しい「我が家の先生」が徹底指導してくれたおかげである。
表紙デザインから綴じるリボンに至るまで母が熟慮の上決定した小1の時の絵日記などは、他の生徒のものを圧倒する豪華版であった。
当然内容の方も初めから母の指示を仰いで書いたものである。
どうせ合否を最終的に決めるのは母なのだから、最初から素直に、何についてどんな風に書くかお伺いを立てた方がてっとり早い。
母はそんな私に苛立ちながらも「できることを好きなようにやりなさい」とは決して言わなかった。
特に私の絵の下手さが気になり出した母は、何度も描き直しを命じた。
「どうしてあんたの描く人は変な顔ばっかりなの、見てて気持ち悪いわ。まるでアカナマダ(深海魚の一種)じゃないの」
その他、「手足が棒みたい」だとか「私はそんな顔していない」とか私の絵はいつもいろいろな注意を受けた。
今思えば、私は他の子どもと比べても決して絵の下手な方ではなかったはずである。
母が気になって仕方がなかったのは、下手さというよりは、子ども特有の表現法だったのではないだろうか。
ある時、日記帳を開くと、家族そろって自転車で河原へ遊びに行った日の絵から私の描いた両親と私が消され、替わりに別の両親と母が描かれている。
母に聞くと「あんまり下手だと困るから変なところを直しておいたの」という返事が帰ってきた。
なるほど母の描いた人物は、手足を棒のように硬直させた深海魚に比べるとよほど上手に描けていた。
また別の日には、雨の日の登校風景を描いた絵の中の人物が、やはり私に無断で全員お人形のようなパッチリまつ毛に「メイク」されていたこともある。
何度も描き直さねばならぬのも面倒だったが、私の力不足を母に諦められるのも実に悲しいことであった。
一方、母の機転のおかげで、少なくとも私が何をやらせても満足にできない劣った人間だという事実は学校に知られずにすむ。そんな恥をかくよりはまだましだ、と嘘がバレぬことを私は密かに祈ったものである。
このような悲しい経験を一切せずに済んだなら、私は今と違って自信に満ちあふれた人間に成長していたかも知れない。
小5の時には、母は私に表紙も頁も白紙の本を買ってきて、松本や飛騨に行ったときの思い出を旅行記に書くよう命じた。
私は例によって母の監督指導の下で文章を綴り、絵を描いた。
まもなく私の字の下手さが気になり出した母は、例のごとく苛立ち始めた。
私には平仮名の「す」の終画を「止め」、「て」の終画を「払い」にする癖がある。
正しくは逆で、「す」が「払い」、「て」が「止め」で終らねばならない。
書き順や筆法にはことのほか口うるさい母は、この癖を厳重に矯正しようと試みた。
しかしその頃の私にとってすでに文字は実用品である。一度ついた癖はなかなか直るものではない。
しばらくの間は、「す」と「て」を書くごとに母に怒鳴られては我に還るようなありさまだったため、しまいには自分が書いている文章の内容さえろくにわからなくなり、作文のスピードや正確さに支障をきたした。
しかしもっと困ったのは、母の刺すような視線から一瞬も逃れることのできない私の手が、緊張のあまりか激しく震えだしたことである。
母の手前、止めなくてはと思ったが、私の意思ではこの震えを止めることはできなかった。
これには母より私の方が内心驚き、旅行記執筆から解放された後も字が書けなくなってしまうのではないかと不安になった。
わずか一日でついたこの震えはその後も続き、普段は何ともない私の手がいざ文字を書こうとすると、たとえ母がそばで見ていない時でも必ず震え出すのであった。
しかし学校が始まり、必要に迫られて字をたくさん書くうちに、この奇妙な癖は消えていったのである。


   叔母一家のこと

親戚のうちで一番我が家と付き合いが親しかったのはおそらく母の妹、つまり私の叔母であろう。
私をかわいがり、幼い頃はよく子守りもしてくれた叔母は、私が小2の時結婚した。
相手の男性は私の父とはいろいろな点で対照的であった。
ハードな肉体労働に就き、酒とタバコを愛し、休日には仲間と野球に興じるような人である。
私の母は、この小学校卒業を待たずに実家の行商を手伝わされたという人物に「優越感に裏づけられた好意」を持っていたようであった。
そんな母に対抗した訳でもないだろうが、叔母は我が家に来ると決まって叔父の親戚の子どもがどんなにしっかりしたよい子であるかを話すのであった。
「子どもの話はやめてくれ。あんたが帰った後、オレは母にネチネチと説教されなければならないんだぞ」
これは我が家に来る客のほとんどに対し、心の中で私が言っていたことでもある。
叔母夫婦に女の子と続いて男の子が産まれ、成長してくるにつれ自慢話の種はその子どもたち、つまり私の従姉弟へと移っていった。
私は叔母一家の空気が好きであった。
私の家が常に怒りに支配されているのに対し、叔母の一家は笑い、喜びなどの感情で結びついているようで、遊びに行くとその解放的な雰囲気に癒されるような気がしたものである。
しかし小4の時、私は母に禁じられ、しばらくの間叔母一家に遊びに行くことができなくなってしまった。
例によって私が何かヘマをやらかし、我が家の恥をさらすことを母は恐れたのであろう。
せっかく私のことを苺狩りに誘いに来てくれた一家を、私がぐうぐう寝ているからと嘘をついて私の知らぬ間に行かせてしまったこともある。
それでも私は、親に内緒でほど遠からぬ一家へと自転車を走らせ、しばらく遊んでから何食わぬ顔で戻ってくることがあった。
一家が我が家に遊びに来たある日、叔父が「うちの子どもたちはこの家の子みたいなバカにはならないよ」と言ったことがある。
私は自分が遊びに行くのと同じくらいか、それ以上にこの一家が遊びに来るときが楽しみであったが、酔った叔父がこのような配慮に欠けた発言で、時々我が家の空気をかき乱すのには迷惑した。
叔父は無遠慮なところはあるが、意地悪い人ではなかったし、そのような発言もよその家庭であったなら、いつまでも険悪な空気を残す火種とはならなかったかもしれない。
私自身もこのような言葉にいまさら傷つくような人間ではない。
しかし母はこの一件がかなり癪に障ったようで、この時からしばらくは叔父と顔を合わすのも嫌がった。
叔父は時々、仕事の関係で手に入る豆腐店の商品をトラックに乗って我が家に届けに来てくれていた。
あの一件からしばらくたったある日、玄関のチャイムが鳴った時、たぶんエンジンの音からであろう、母はチャイムの主が叔父だと悟り、「私はいないと言っといて」と自分では出ようとせず、私に応対を促した。
そのとき私は、母がまだ怒っていることなど知らなかったが、たいして不審にも感じず母に代わってドアを開けた。
その日も豆腐や油揚げを届けに来てくれた叔父は、袋を私に渡しながら「お母さんはどうした?」と聞いた。
私が、今母はいないと答えると、叔父は「お母さんに内緒で遊びに来ちゃだめだぞ、今度来る時はちゃんとお母さんに言え」と言うのであった。
実はつい数日前も私は先方に遊びに行っていたのである。
まさに危機一髪、私は冷や汗をかいたが、このやりとりに聞き耳を立てているとばかり思った母は、気づかなかったのかそれとも耳をふさいでいたのか、不思議と叔父が帰った後も何も言わず、私は安堵の胸をなで下ろしたのであった。


   暗殺者

母は私に「勉強しろ」とはあまり言わなかった。
少なくともそのような言い方は避けるべきだと考えていたようで、替わりに同じことを実に回りくどい言い方で言うのであった。
母にとって勉強とはあくまでも、子どもが自発的に行うべきものなのである。
しかし言いたくてたまらないことを素直に言えず、常に苛立っていた母と私の間には時折、奇妙なやり取りが起こった。
何やら険悪な顔で掃除していた母がいきなり私を掃除機で小突いた時は、思わず声を荒げて「何するんだよ、なんにもしてないじゃないか」と母に抗議したところ「何もしてないから怒ってるんじゃないの」と言われ、当時の私にはさっぱり訳がわからなかった。
そのような時は父が気を利かせて「お母さんはたぶんお前にもっと勉強してほしいんじゃないのかな」と教えてくれたので、やっと私にも事情が飲み込めたものであった。
また私が小6の正月のことである。
なぜか母は数日間私と全く口を利こうとはしなかった。
父の実家に年始の挨拶に行った帰途のバス停で、母は私を指して
「この子はね、私を殺したいと思っているのよ。子どもが母親を殺す話を毎日夢中で読んでいるもの」と言った。
もちろん私も驚いたし、父もこれには苦笑せざるを得なかったようである。
因みに私が読んでいる話とは、当時新聞に連載されていた「偽原始人」という小説のことである。
この小説に登場する母親は我が子に「東大」という名前をつけるほどの、猛烈な教育ママなのであった。
無視されている私は反論もできず、仕方なくできるだけ母と離れてバスを待つことにした。
放っておけば限りなく口うるさい親になってしまいそうな自分を抑えなければ、という思いと、私にもっと勉強して欲しいという思いの間で板ばさみとなり、母は少し変になってしまったらしかった。
まもなく母に尻をたたかれたらしく、父が私の傍にきて何やら同情的なトーンで話し始めた。
しかし父自身の思いに裏づけられていない言葉は、何が言いたいのか実に理解しにくい。
結局父は「勉強しろ」という意味のことを言うことで母の顔を立て、「言うべきことを言う」ことで自分の顔も立て、なおかつついでに私のご機嫌も取りたいのであった。
最後に父は「あんなわからず屋は暗殺だね」などと穏やかでない軽口を叩いて私をギョッとさせたが、もちろん私はいくら口うるさいからといって母を殺したいと思ったことはない。
父までが母の正常とは言いがたい言葉を信じて私のことを誤解しているのであった。


   憲法

小3の頃、我が家には「憲法」なるものが存在した。
残念ながら今となっては正確な内容を思い出すことはできないが、母が父に書かせた四、五条からなる条文が部屋の壁に貼られていたことは記憶している。
第一条は「親の命令には必ず『ハイ』と返事して従うべし」というものであった。
他は勉強や手伝いについてなど普段言われているようなことであったと思う。
今思えば滑稽としか言いようがないが、親は本気であった。
しかしその場の都合で民主主義と封建主義を使い分ける自分たちの矛盾には、ついに思いが及ばなかったようである。
この憲法は親の権力を絶対正当化しながら、一方で親の誤解や横暴に子どもが抗議する自由は完全に封じ込めるという「宣言」であった。
私は口の減らない子どもであったし、勉強も親が望むほどはしなかったのであろう。
しかし親は親、私は私とそれぞれの都合や意見を抱えていたし、毎日のように何事かを巡って親と衝突した時には私も必死で自分の主張を述べた。
しかし、そのような「口応え」自体が罪悪であると見做され、全く耳を傾けてもらえぬことに私は大きな不満を抱いていたし、親の方でもそんな私には手を焼いていた。
そんなさ中に発布されたのがこの憲法であった。
一方的な制定に反発を感じた私はさっそく、第一条にイチャモンをつけた。
「親が間違ってる時も絶対に『ハイ』って言わなきゃいけないの?」
「親が間違ってるかどうか、アンタに判るわけないでしょ」
「1+1=3だっていわれてもハイって言わなきゃだめ?」
「そうです。親は絶対まちがえないものと思いなさい。だいたいそんな事、子どもなんかに決められるはずないでしょ。
とんでもない話よ」
我が家に限らず古風な家庭では一般的にこのような「親は必ず正しい」という偏見を前提とする教育方針がまかり通っているのであろう。
だが幸か不幸か私はそれに従うような子どもにはならなかった。
私と親はその後も何かと言い争いを繰り返し、結局、条文を大書した模造紙は、効力が全く認められなかったためか、親がその異常さに気づいたためか、ほどなく壁から剥がされてしまった。


   自分と出会う

高校生の頃、私は勉強、生活態度など多岐にわたり、執拗をきわめた母の干渉に疲れ果てていた。
相変らず「言う」ことを全く認めてもらえず、従うことも逆らうこともできない命令に追いつめられてゆく、という絶望的状況の中で私に残された唯一の道は「知る」ことだけであった。
なぜ私はこんな苦しい目に遭わねばならないのか、私は本当に親の言うような箸にも棒にもかからない劣った人間なのか?」 反論する相手がいるうちは、人間は必ずといってよいほど自分では気づかぬうちに、自分は正しい、という前提にしがみついているものである。
しかしすべてに突き放されていた私は、初めて「知る」ということの本当の意味を知ることができた。
他人ではなく自分が納得できる答えを見つけようと私は、隠された好都合な嘘に支えられているかもしれない自分の足場を暗闇の中で切り崩していった。
確かに私は怠け者かもしれない。
親が望む通りの人間になるために四六時中を通じて全力を尽くしたとは言えない。
しかし、お前のことを思えばこそと口うるさく注意し、命令し、叱責する母に対して私は、報いを受ける覚悟はできているからどうか「怠け者」でいさせてくれ、としまいには頼んだものであった。
まるで走り続けて道端に倒れるたびに鞭打たれる人のように、我慢の限界といってよいほどの強い疲労と不満を、私が当時の状況に対して抱いていたことだけは間違えようのない事実である。
「それなのにこれからも私は、親の仕打ちに対して抗議する自由を認めてもらえぬまま、親に憎まれ、親を憎みながら生きていれねばならないのだろうか?」 こんな具合に悩んだ挙句、私が得たものといえば「常に走り続けなければならない人生など誰が何と言おうと生きるに値しない」という確信だけであった。


   受験

高校3年の頃には母の口うるささは保育園以来のピークに達した。
今思えば人が幸福に生きるためになぜ学歴が必要なのか、という問題について母自身は具体的なビジョンを何一つ持っていなかったのに違いない。
一方で「この時世に大学も出ていないのは人間のクズだ」とか「模試の成績に満足して油断するな」とか「5時間も睡眠をとると落ちる」とか漠然とした不安や焦りを煽り立てるような言葉ばかり毎日私の頭に吹き込んだ。
また興奮した母の口から出る言葉は、時として母自身の混乱や矛盾を感じさせるものであった。
「すべり止めの大学なんかに合格しても意味ないのよ。入らない方がましな大学もあるんですからね」
受験する張本人に自分ほどの焦燥感がないと見るや、果敢にも母は自分より図体の大きな私に対して、手を振り上げることさえあった。
父は例によって私には何も言わなかったが、母によれば「大学に落ちたら自衛隊に入れる」「禅寺にほうり込む」「ミンク養殖場にやる」などと言っていたそうである。各関係者が聞いたらさぞ気を悪くするに違いない。
当時私は学校から帰宅すると休息と称して夜までダラダラとくつろぎ、夕食後はといえば二階の自室で勉強ということに一応なってはいたが、ラジオで音楽など聴くうちに睡魔に襲われ、じきに眠ってしまうのが常であった。
様子を見にきた親は当然怒り、私を文字通り叩き起こすと何やら刺すような言葉を浴びせ、荒々しくドアを閉めると怒りを足音で表しながら階下へ降りて行った。
特に私が好きだったのは「夢のハーモニー」という番組であった。
題名からも察しがつく通りこれから眠ろうかという人が聞くための、いわば子守歌的音楽番組なので、受験生向きとは倒底言い難い。
ある夜、例によってこの番組を聴きながら眠ってしまった私は突然、「人間のクズ! もういいから寝ちまえ!」という罵声に目を覚まされた。
鎧を脱いで楽園に遊んでいた私の心に、この毎晩のように聞きなれたはずの言葉は応えた。
いつものようにどちらが悪いだの正しいだの、なぜならどうのこうのといった考えは一切浮かばず、ただ悲しかった。
涙が一体どうしたかと思うほど流れたのを覚えている。
明らかにあの時、私の人生観に大きな変化が起ったのに違いない。
そうこうするうちに試験当日を迎え、そして間もなく結果が明らかとなる日が来た。
―次志望の国立大の合格発表で不合格を知った私は、親が連絡を待ち侘びている自宅に電話を入れ、ことさらに快活な口調で報告した。
しかし電話に出た父のやさしげな慰めの言葉らしきものを聞くうち私はだんだん腹が立ってきた。
自分でも気づかぬうちに私は怒り狂う親の声を期待していたのである。
故意に快活を装ったのも気を使ってというよりもむしろ、神経を逆なでしてやろうという気持ちからであった。
もちろん私は別に親に復讐するためにわざと不合格になった訳ではないが、私をさんざん追いつめた親に、このような猫なで声を出す余裕があるとは心外である。
もし私が本心から入学を希望していた大学に落ちたのならば、慰めの言葉に感謝の念も湧いたであろう。
しかし私が今まで苦しい思いをしてきたのはひとえに親のためなのである。
私自身は親に対して大学に行かせてくれと頼んだことはただの一度もない。
それでは何か他のことがしたかったのかといえばそういう訳でもない。
当時は私自身にも考えつかなかったが、私はただ立ち止まりたかっただけなのであろう。


   大学生活

さて大学へ入ったものの、私にはこれから始まる新しい生活に向って歩き出すだけの気力はほとんど残っていなかった。
思えば私は本心から来たいと思ったことのない所に、わざわざ満員電車に揺られて来ているのである。
神経が疲れているせいで、初対面の人と顔を合わせるのも非常に鬱陶しかった。
サボりたい者は好きなだけサボれるのもまた大学という所である。
朝の電車の中でふと思いついて途中の駅で降り、デパートの屋上や連絡通路でボーッとしたり、本を読んだりして過ごすこともあった。
隙のありそうな顔で町中をうろついていて、某教団のビデオセンターに招待されたこともある。
大学生活に不向きだった私もしかし、初めのうちは単位を落とさぬ程度に講義にも出席し、苦手な縦社会の人間関係に恐れを抱きつつサークルにも入った。
絵を描くのが好きな私は最終的に美術部を選んだ。
しかしここでも私は失敗した。
新入部員は一気飲みをさせられ、酔いつぶれねばならないはずの歓迎会で、酒の嫌いな私は反抗的な意見を述べて、その場の雰囲気をしらけさせ、すっかり反感を買ってしまったのである。
サークルという集団における私の役割はこの時決まったらしかった。
ムラ的共同体に新しく加わろうとする者が、イニシエーションの段階でつまずくと、後々まで仲間と認めてもらえない。
「おまえ浮いてるぞ、もっと周囲と馴染めよ」などと言われる度にかえって疎外感を募らせ、私の足も部室から自然と遠のくのだった。
2年生になると新たに後輩が入ってきた。
彼らは私などよりずっとサークルの人間関係に適応していたので、もはや私はいたたまれなくなり、結局退部してしまった。
もちろん美術部に入ってよかったこともある。
それは絵を通し多くの人の心をつかむという経験ができたことである。
30号のキャンバスに絵を描く快感、またその絵が展覧会の会場に飾られ、多くの人の目に触れるという快感は、もし美術部に入っていなければ私にはわからずじまいだったかもしれないものである。
一方、講義内容を頭に詰めこむ苦痛にも耐えられなくなった私は、学業の方も惨憺たるありさまで、サボリ放題にサボった挙句、2年生になる頃は立派な落ちこぼれであった。
最初の数ページを除いて新品同様の教科書を携えて久し振りに出席したドイツ語の講義で、私は運悪く先生に訳を命じられた。
めまいと戦い、脂汗をしぼり抜いて何とか私は珍訳をひねり出したが、それを最後まで聞いた先生は、軽蔑と怒りに満ちた一瞥とともに「そんなことどこにも書いてないよ」とシンと冷え切った空気の中に吐き捨てるように言った。
成績が多少よかったというプライドに支えられて19年を生きてきたつまらぬ男は、この瞬間崩解したのであった。


   引き籠もり

大学生活に挫折した私はある日、母に言った。
ひ弱な私は力を使い果たしました。大学へ行き続ける力もあなた方と顔を合わせる力ももう残っていません。
あなたたちがせっかく敷いて下さったレールから見事に脱線した人生の敗北者です。
野垂れ死にを覚悟で家を出ることにします。
さすがに母も只事でないと思ったか、普段のようなキツいことは何にも言わず、今にも出て行きそうな私を思い止まらせるのが精一杯であった。
私の方も言うべきことを言ってしまい、気が楽になったためか、結局母の言う通りに家を出るのをやめにして、その替わりにその日から自室に籠もった。
出て行くのはいつでもよい。
そのうち風に吹き寄せられた落ち葉が土に還るような人気のない場所を選んで、飢えて死ぬまでの間、自分の人生と呼べる瞬間を噛みしめ、束の間の解放感に浸るのだ。
気が向いたら拾い食いでもして好きなだけ命をつなぐもよし。
私は来るべきときにそなえ、身辺の整理をした。
どうせ不要になるさまざまな持ち物は、ほとんど売るか捨てるか部屋の外へ放り出すかして、最後に残ったのは机とテレビと布団だけであった。
親は私が部屋から出ようとせず呼びかけにも全く応答しないため、仕方なく外へ出かけた。
当時の私は気がつかなかったが、おそらくこの頃、いろいろな機関や施設をたずねては病的な息子のことを相談していたのであろう。
幸い妙な病院や矯正施設に収容されずにすんだが、今思えばまるで綱渡りである。
両親との間には、妥協して縄張り争いを回避する動物の社会のように暗黙のテリトリーができていった。
両親は朝起きると食事と家事をすませ、私の食事とメモをテーブルに用意し外に出かける。
すると私が2階の自室から出て来て1階で過ごすか外に出る。
夕方、両親が帰宅する前には私は自室に戻る。
両親が家事と夕食をすませ、10時半頃にはメモと食事を用意し、2階の寝室に上がるので入れ替りに私が階下へ降り、夕食をとる。
私は両親がいる限り部屋を出ることはない。
母による管理干渉を徹底的に拒否した私は、生活習慣も私なりに変更した。
ほとんど空になった部屋の掃除は、必要に応じて自分でやる。
私のような人間のクズに相応しい清潔さが維持されていればよい。
衣類は自室で管理し、必要に応じて洗濯する。
入浴は昼の間にすませることが多くなった。
外が明るいうちに、しかもぬるい風呂に入ることなども、特別な事情がない限り以前は考えられなかった。
ガラス越しの陽を浴び、自分の体の軽さに陶然となりながら私は、さまざまなことについて思いを巡らせたものである。
困ったのはトイレであるが、これは自室にいる間は簡易便器を使うことで解決した。
初めのうちは抵抗があったが、慣れてくるに従い、換気さえすれば水洗便所と比べても衛生上特に問題がある訳でもないことがわかり安心した。
工夫を迫られながらやむを得ずこの「究極のゴミ」と同一空間に生活するという経験は、私にいろいろな真理を教えてくれたように思う。
とにかく新しい生活は、まさに発見の連続であった。


   家庭内暴力

親に叱られるたびにひたすら泣き、謝っていた幼い私は、大きくなるにつれ、生意気にも親の教育方針に異議を唱え出した。
素直に苦しいと言い、幼い頃のように泣いて謝っていればよかったのに、両親同様、理屈っぽい性格の私は、それを
「あなたがたは間違っている。私は正しい」という言い方でしか伝えられなかった。
コンプレックスを刺激された親は当然感情的になり、態度を硬化させた。
権威を振りかざし、締めつけを強化する親に私がまた反発し、不毛の言い争いが果てしなく続いた。
こうして十数年の間、傷つけ合うことに時間とエネルギーのほとんどを費やしてきた愚かな家族、それがわれわれ親子である。
しかしさすがに私が大学をやめると宣言し、のみならず自殺や家出まで口にするに及んで、親の方も自分たちの教育方針を省みないわけにはいかなくなった。
「私たちは今までうるさすぎたようです。これからは大学へ行って勉強しろともバイトしろとも言いません」というメモがテーブルに置かれていたこともある。
私は正しかったのだ。
しかしすべては遅すぎた。
勝利の歓びはそのまま虚しさに変った。
メンツを賭けた父や母と長い間繰り広げてきた戦いのさ中、私が失ったものは大きい。
抗議の甲斐あって、晴れて親が自らの過ちを認めた。
これは何を意味するのか。
私は二十年近くの間、親にムダにいじめられた挙句、抜け殻同様の廃人になり下ったのだ。
親から解放されて初めて私に与えられた自分の眼は、いきなり絶望の荒野をさまようことになった。
私は今、自分の足の下で踏みつぶされようとしている虫かもしれない。
私が体重をかければ虫は悲鳴もあげずに死んでゆく。
いや、痛みと恐怖と悲しみに押しつぶされて死んでゆく虫が悲鳴を上げないはずがない。
虫を踏みつぶしても何の天罰も受けないのは、彼らの声を聞き届けるべき神がいないからなのである。
神はいない。
そんな当り前の事実が持っている恐ろしい意味に、私は今まで気づかなかったのだ。
私を待ち受けた運命は私が犯した罪に対する罰としてではなく、不条理な災難として諦めねばならない。
そして親は私を踏みつぶした罪により罰を受けることはないのである。
一日中考え事をして怒りや悲しみが込み上げてくると、耐えられなくなって私は家の中の物をよく壊した。
家具、建具、家電製品、食器等々。
買って間もないガラスのテーブルを真っ二つに叩き割ってその場に立ち尽くしながら私は思った。
こんな私を見たら世間の人はいったい何と言うだろうか。
確かめるまでもない。
親にさんざん私を踏みつけることを許し続けた「社会」が私のような人間のために用意しているのが「犯罪者」「異常者」という烙印である。
「社会」に適応した人たちは、なぜ私がそのような破壊行為を繰り返すのかを私に聞き、それが良いことか悪いことかを私に教えようとするだろう。
しかし私は彼らに答えることも従うこともできない。
誰が何と言おうと、悲しいとき、怒ったとき、人は何かを壊す。
その気持ちは物を壊さずにはいられぬほどに悲しみ、怒った人にしかわからないのであろう。


   家出旅行

私は臆病で、また楽天的なところもあったせいか自殺はせずにすんだ。
少なくとも当時の私は、死ぬより辛いことはないはずだと考えていたし、死に臨んで平然としていられる勇気もなかった。
勇気とキッカケさえあれば人は必ず自殺することができる。
しかしダラダラ生きるのに勇気は全く必要ない。
私のような臆病な怠け者の最も得意とするところである。
自殺願望は多くの場合、人間の中で自然が「社会」に追い詰められて起こす反応と解釈できる。
しかし社会は傷ついた者に対し自殺することもダラダラ生きることも許さない。
だから社会の目を盗んでは勇気のある人が自殺したり、柔軟性のある人が私のようにダラダラ生きている一方で、傷ついたまま世間の表舞台に一歩踏み出した人は「社会のタテマエ」という奔流に巻き込まれてさらに傷つきながら生きることを強いられるのである。
因みに現在の私は、そんな人生を送らねばならないのは、死ぬより苦しいことだと信じている。
ともあれ、今よりは楽天的であった当時の私は、自殺を企てるかわりに死んだつもりで好きなことだけをすることにした。
すべてに突き放されている、ということは何物にも縛られないということでもあるし、金と未練を持て余しながら自殺するのはいかにも馬鹿らしいことである。
今こそチャンスだと気付いた私は旅行をすることにした。
気が向いたら一生走り続けてもよかったし、野垂れ死にするのも悪くない。
新しく買った自転車で私は足の向くまま走った。
家に帰る時刻も気にせず、疲れたらどこででも寝た。
私の足は、小学校の頃から昆虫採集が好きだった私が、いつか一度は行ってみたいと思っていたいろいろな場所へと私を運んだ。
ある時、夜中になって着いたのは、夏だというのに息の白くなるような高い山の中で、疲れた私が山小屋の傍に仰向けになると、空には目を疑うような数の星が輝いていたものである。
ふらっとたどり着いた東京湾の船着場で沖縄行きの船を見つけ、乗り込んだこともあった。
島影一つない大海原の真っ只中では一日中飽きもせず海を見ることができたし、行く先々の島ではいろいろな風景や生き物、そして人との出会いも経験した。
念願叶い虫も採集したし、美味しいものも食べた。
こうして何度か思う存分羽根をのばしては、私はそのたびに結局はダラダラと家に帰ってきたのである。
死ぬの生きるのと騒いでいたくせに、何を呑気なと嗤う人もあるかもしれない。
しかしこれこそが私が紆余曲折の挙句たどり着いた生き方の知恵である。
もうすぐ死ぬかも知れないのは、考えてみれば誰しも同じことであり、これに気づいたからといって何も手につかなくなってしまうよりはマシではないか。
しかし、数回にわたる旅行のさ中に私が得た最も大きなものは「目」である。
初めて見る天の川や、月明かりに浮かび上がった山の影や、視線をひたすら吸い込んで果てしなく広がる底なしの海、その他、気がつけばいたる所に、それまでの私が無意識のうちに見ることを拒んでいた何者かが潜んでいた。
人間を脅かし、「社会」に逃げこむように仕向け、のみならず一方で、そこから切り捨てられた者をかくまうように受け止めてくれる、人間の力を超えた冷酷で寛容な存在、即ち自然である。

(約三年の引きこもり生活の後、食中毒で病院に担ぎこまれたことをきっかけに、数年間親と顔を合わせる生活に戻る。
親と共にカウンセリングを受ける)


   薬

母はカウンセリングと平行して、新宿にある神経科の病院にも通って私の薬をもらっていた。
カウンセラーの先生の意見を参考にした上での判断である。
当時の私はただ無力感の中で途方に暮れるばかりだったので、周りの人に主張すべき意見などあろうはずもなく、母の通院には賛成も反対もしなかった。
その薬を飲んだ時は、気のせいも手伝ってか明らかに活動的な気分になったのが自分でもわかった。
外出の際、近くの町の地図や自転車のパーツなど、大して必要でもない物や、それまで買うことを思いつかなかった物をあれこれ買ったりした。
私は半分も期待していなかったが、母は「薬を飲めば必ずよくなるから」と私を説得した。
もっともその母自身が本心からそう信じていたかどうかは私にもわからない。
それでも私は買ったものを見せては母に「これもたぶん薬の効き目だよ」と笑って言ったりもした。
しかし些細な原因から母と言い争いになり、私が腹を立てる、というようなことは別に以前と比べて減った訳でもなく、憂鬱な気分は薬を服んでも変わりはしなかったのである。
私のことで母ばかりに医者通いをさせる訳にもいかないので、私もなるべく面倒なのを我慢して自分で行くように努力した。
二時間近く電車に乗り、待合室で三時間、数分で診察を終えると寄り道もせずまた二時間かけて帰宅する。
その度に私は以前と気分が変わらないことを訴え、薬ばかりが増やされていった。
家では相変らず母と私の間にしばしば感情的なすれ違いが起こった。
そしてそのズレはたいていの場合、話せば話すほど広がってしまうようであった。
誤解を解いてもらおうと焦る私の声がつい荒くなった時などには、母は「ホラ、お薬お薬」と言うのであった。
私もこれ以上双方辛い思いをするよりは、とほとんど自棄になって薬を服んだ。
ちょうど麻薬に頼る人と同じような心境であったに違いない。
しかし、頓服を服んだ時の気分の悪さと言ったら、今思い出しても説明のしようがない。
あるいはかのロボトミー手術を受けたらこんな感覚になるものだろうか。
食事の際、しばらくするまで自分が何を食べているのかわからなかったこともある。
またこの頃は妙に体重が増えていたこともあり、私は文字通り身も心もズッシリと重くなってしまったのである。
薬を服み始める以前の方が、明らかに調子がよかったと感じた私は、服用を打ち切りたいと母に申し出た。
初めは反対していた母も、再びカウンセラーの先生の意見を聞いた上で私の希望を受け入れることを決め、医師も「ホントにいいのか? 大丈夫か?」と疑わしげながら治療を終了してくれた。
私もこれで元の生活に戻れると心底ほっとしたのである。
ところが薬を止めてしばらくたったある日、妙なことが起った。
風呂場で髭を剃っている最中、突然訳もなく強い悲しみと不安が襲いかかって来たのである。
鏡の中の自分の顔は見る見る歪み、それを見る私の目からは涙がこぼれてきた。
日常的な気分の変化にしてはほとんど瞬間的といっていいほど急だったし、その落差も激しすぎる。
何が何だか訳のわからぬまま力の入らぬ手で髭を剃り終え、居間へと戻ったものの、そこで私は倒れたままほとんど起き上がれなくなってしまったのである。
この突然襲いかかってきた鬱状態は、薬の服用をやめたことによるリバウンドであるということが判明した。
それからの約一か月間は地獄であった。
朝、親のいるうちは横になったまま背中をさすってもらい、両親が仕事に出かける日中は布団をかぶってただ震えている。
微かな風の音にさえ怯えるありさまだった。
せめて静かな音楽を聴いて心を癒そうと思ったが、ふだん何気なく聴いているどちらかといえば穏やかな曲さえ、顔をしかめずにはいられぬ程の苦痛を私に与えるのだった。
結局、当時の私に聴くことができたのはバロック音楽と、あるファミコンゲームの音楽だけである。
どちらも無限、永遠の静寂と死後の安らぎに支配された世界を私に経験させてくれた。
私はそのゲームに登場する妖精の王子が羨ましかった。
永遠に眠り続けられるのなら呪いでもいいからかけてくれ、と当時の私なら頼んだであろう。
眼に映るすべてのものが苦痛の種だったが、とくに私が恐ろしかったのは、あの買ったきり一度も使ったことのない地図であった。
何も見ないように頭から布団を被っていても、地図などというものが自分の部屋にあること自体に耐えがたい恐怖を感じた私は、勇気を奮ってそれを破り捨てようとしたが、地図というものが実に破れにくい紙でできていることを知り愕然とした。
誰か助けてくれ!と叫びたい気分であった。
この頃ほど私が2週間に一度のカウンセリングの日を待ちわびたことはなかった。
今こそ私には助けが必要なのだ。
早く先生に会ってこの恐ろしさ、悲しさ、心細さを伝えたい。
しかし待ちに待ったカウンセリングで「まるで周りの全てが見なれないものに変ってしまったみたいなんです」という私の言葉に先生が「で、そのどこが不満なの?」といかにも不思議そうに問い返した時、私は一切を了解した。
この人に助けを求めても無駄だ、と。
その後両親のカウンセリングは続いたが、私が直接先生にお会いしたのはこの時が最後である。
この一件によって私は、薬の不適切な使用がいかに恐ろしい結果を招くかを思い知らされた。
思うに薬を処方した医師には、私の心の状態が正しく伝わっていなかったに違いない。
私のことについては初診時に母の口から説明されただけなのであるから、それも当然であろう。
それでは、最初から私自身が医師の元を訪れていればよかったのか、というとそうも言い切れない。
どのみちその頃は、私自身も自分の心の状態を的確な言葉で表現できるほど、頭の中が整理できていた訳ではないのである。


   M先生の思い出

十月のある日、一家で外房にドライブに行くことになったので、私はM先生のお宅に寄らせて頂くことにした。
M先生とは、ベゴニアという園芸植物の研究家である。
ほとんどあらゆる植物が好きな私にとっても、ベゴニアはまた別格の存在といえるほど好きな植物である。
M先生はそのベゴニアの品種を次々と外国から導入し、在来品種の素性を調べ、その性質や栽培技術の研究に、また改良や普及にと大きな功績のあった我が国随一の研究家である。
たまたま先生の著書に出会った私は、高校2年の夏休みに先生のお宅をお訪ねしたことがある。
教職を務められたこともある先生は、私のような若い者がベゴニアに興味を持っていることを大層喜んで下さり、いろいろな話を聞かせて下さった。
冷えた西瓜をご馳走になりながら、当時発行されたばかりの綺麗な本を見せて頂いた私は、一刻も早くこの植物を自分の手で上手に育てられるようになりたいと思ったものである。
そして何より私を驚かせたのは先生のコレクションであった。
広い温室に所狭しと並べられた鉢には、この美しい植物が品種ごとに驚くべきバリエーションを見せていた。
この植物の魅力が世間にもっと評価されていたならば、私は他のすべてをなげうってでも趣味ではなく職業としてこの植物の栽培に一生を賭けたかもしれない。
あれからいろいろなことが起こり、一度は手元にあった植物をすべて手放した私だったが、ぜひもう一度この植物が私の世話の下で美しく育つところが見たかった。
ありがたいことに、先生は希望する人には増やした苗を格安で頒けて下さっているのである。
久し振りの再会を目前に緊張しながら私が車に乗ると、母は私に金を渡し、途中の店で和菓子を買うよう命じた。
「手ぶらでお邪魔するのはとても非常識ですからね」。
全くその通りだと納得し、また感謝しながらも、またもや母のペースで物事が運び始めたことにいら立ちを感じた私は、車の中で多少無愛想になっていた。
早めに我が家を発った車が無事房総半島を横切り、先生のお宅のすぐ近くに到着すると、私の提案により、2時間後にその場所で落ち合うことに決まった。
どうせ両親は植物に興味はないし、景色のよい所でのんびりしてもらった方がこちらも助かる。
私の方も時間が余れば散歩でもして景色を楽しめばよい。
いよいよお宅へ向かい玄関で挨拶をするとまもなく先生が出て来られた。
久し振りにお会いする先生は、やはりお年を召されていた。
さっそく温室へ私を案内してくださりながら先生は、最近交通事故に遭われたり、台風で温室の一部が破損したりで、植物の世話も思うにまかせなかったことを話された。
温室内は確かに荒れていた。
もしこれが初めての訪問だったなら、やはり十年近く前同様、私は感動したかもしれないが、前に拝見した折との印象とのギャップがぬぐい切れない私は、先生の気持ちをお察しするばかりであった。
ふと気がつくと、温室の中に何と両親がのこのこと入って来るところであった。
仕方なく「両親です」とだけ説明し、私は一緒に温室を見せて頂くことにした。
しかし植物に関しては知識も興味もない母の方が、温室の変わりようを目の当りにして余計緊張してしまった私よりは、門外漢なりにのどかに会話を運ばせられるようで私は少し安心した。
やがて奇妙な花に目をとめた母が名前を尋ねると先生は「パイプカズラです」と教えて下さった。
温室を一通り拝見し、お話も伺うと、両親は車へと戻って行った。
前の晩、高鳴る胸を押さえて書いた希望品種リストは全く役に立たなかったものの、私は先生にお願いしてなんとか何種類かの苗を頒けて頂くことができたのである。
最後に思い切って「もし私にお手伝いできることがあれば、何なりとおっしゃって下さい」と願い出ると先生は 「そうですね……三月にならないとねえ」と笑って答えられた。
しかしこれは却ってご迷惑であったかも知れない。
植物と世話する者の関係がいわばプライバシーであることは、私自身よく知っている。
玄関でお礼を述べ、私は袋からお菓子の包みを取り出した。
「つまらないものですが、宜しかったら召し上って下さい」
「いえ、そういうものは頂かないことに決めているので」
「先生のお口に合わないようでしたら、ぜひご家族の方にでも……」
「いえ、本当に結構ですから」
そうおっしゃる先生のお顔に確かに、疲れの色が見えた気がした私は「そうですか」と包みを引っ込め、お別れの挨拶を告げて、玄関を後にするしかなかった。
広い庭を門まで歩きながら、私は急に恥ずかしさで顔が火照ってくるのを感じた。
先生は恐らく残念がっていらっしゃるのだ。
遠くから訪ねて来たわれわれ一家に、どう見てもよいコンディションとはいえないコレクションを見せることは、先生としても本意ではなかったに違いない。
私は本当に「つまらないもの」を出したせいで、先生と私の距離が遠くなってしまったような気がした。
たとえ非常識と思われる恐れはあっても、菓子など出さなければよかったのではないだろうか。
車に乗り込む私が菓子を持っているのを見とがめた両親は、どうしたのかと訪ねた。
「いらないってさ……行こう」 すると父が言った。
「バカだなァ、遠慮しているんだよ」 父とはこういう人間なのである。
人に物をあげる時にも相手の顔など見ない。
表情に表れる「情」がわからないから、見ても見なくても一緒なのである。
人が「いらない」と断われば絶対に遠慮しているものと決めつけ、しつこくすすめる。
そしてしまいには双方が声を荒げることになる。
そんな悲しいやり取りを、私は彼の家族として今までに何度か目の当たりにし、自分自身も何度か経験していた。
「バカだなァ、しょうがない。おれが渡してくる」。
父がそう言って車から出ようとした時、私は思わず父をどなりつけた。
「いいから早く車を出せ!」 親不孝な私が父を怒鳴ったのは、別にこれが初めてではない。
しかしこんな悲しい気持ちで怒鳴ったのは後にも先にもこの時だけである。
父は渋々車を出した。
私のことをさぞばかだと思ったに違いない。
しかし私はどうしても父を行かせる訳には行かなかった。
私は先生を尊敬している。
私に生き甲斐と出会うチャンスを与えてくれた大切な人として感謝してもいる。
父のくだらぬ意地でこれ以上傷つけるようなことは絶対に許したくなかったのだ。
私は誤解の気配に対するいら立ちをすべて胸にしまい込み、ひたすら外の景色を眺めた。
今から7、8年前の思い出である。あのM先生も今は亡い。


   茸狩り

共通の趣味もある古い知り合いのTさんとKさんには、ドライブによく連れていってもらった。
遠くの山や海や見知らぬ町の風景に心を踊らせ、時に写真を撮ったり、時に絵を描いたり、また虫捕り、茸狩りと楽しい思い出は数え上げればきりがない。
しかしドライブにまつわる思い出も、決して楽しいものばかりではない。
しばらく運転するとTさんは必ず不機嫌になった。
そしてマナーの悪いドライバーや、道路公団や、警察の交通課やら道路地図やらナビゲーター(つまりKさん)やら、要するにほとんどすべてのものに対する正義感と知性に満ちあふれた批判をとめどなく展開するのだった。
しかしそれはたいていの場合、幼稚な責任転嫁とたちの悪い愚痴にしか聞こえず、そんな時には私は、車窓に広がる風景の美しさに努めて意識を集中した。
我々は茸狩りが大好きで、シーズンになると買いそろえた本を読み漁ってはあれが採りたい、これが食べたいとあちらこちらの山へ出かけたものである。
ある日、茸を求めて北関東へと出かけた時のことである。
山の中で人が車を停めて何かを採っているのを見てTさんは、われわれもここで採ろう、と言った。
私は、立て札によればそこは自然公園内の採集禁止区域であることを告げた。
彼は車を走らせながらも「だって奴らは取ってるじゃない」「立て札立てた奴にはどんな権限があるっていうんだろうねえ」「たかが茸を採るだけのこと、禁止する意味が本当にあるのかね」と実に多面的な反論を試みた。
それ以上何も言わない私を、彼はやり込めたと思っているのかも知れなかったが、私とKさんはいい加減うんざりした。
そのような思いをしてまで茸を採って一体何が面白いというのであろう。
因みにTさんは、もともと茸そのものに興味を示す人ではない。
本も読まず、種類も覚えず、料理もせず、かといってその美しさへの感動や愛着や思い出を熱く語るわけでもない。
おそらく彼にとって茸とは単に、欲望と権利意識に駆り立てられて行うゲームの対象でしかないのであろう。
車を走らせながら外を眺めては彼は、しきりに「採ってる、採ってる」と言った。
不思議なことに、羨望と非難という矛盾した思いが同時にこもった言葉をしばしば口にしながら、彼自身は常に正義と良識の高みから相手を見下しているらしいのである。
前の車が赤信号を突破するのを「全くけしからん奴だね」と真面目な顔で非難しながら、なんとその尻にくっついて一緒に走り抜けたこともある。
未練たらたらの様子で山の中の道をしばらく降り、今度は道端の木の枝に実をつけた山葡萄の蔓を発見したTさんは「採ろうか、ここなら立て札がないもんね」と言った。
私はどうぞ、とだけ言ったが彼は取ろうとはしなかった。
彼はこのような時「あなたは間違っていませんよ」という意味の言葉を聞くまでは決して動こうとしない。
自分の欲望と権利を妨害する者が現れるたびに、突如として饒舌になる「正義の人」は、責任を一緒に取ってくれる誰かが現れない限り、主張を行動に移さないのである。
これも茸狩りの思い出だが、山梨のとある山中で人工栽培のほだ木に生えている茸を採るかとらぬかで、今度はKさんと私の間につまらぬやり取りがあった。
彼女はそのほだ木は捨ててあるのだと言い、私は茸が生えることを期待して持ち主がそこに置いた可能性もある以上、茸は採るべきではない、と言った。
「だって乱暴に放り投げてあるじゃない」
「こんなところにわざわざ置くかしら」
「茸だって少ししか生えていないし」
「しかももう腐りかけているよ」
「少ししか採りゃしないわよ」。
どちらかというと私の意見に押される形になった彼女は、次々と言い訳を試みるのだが、その一言一言に私は反論した。
どこにどんな置き方をしてあるにせよ、彼女が採りたいと思うに足るだけの茸は生えているのだし、ほだ木の持ち主に確認しない限りわれわれが勝手に判断を下すわけにはいかない。
今にして思えば、そもそも最初に私がつまらぬ「正論」を述べたりしなければ、双方嫌な思いをせずにすんだのかもしれない。
しかし私は、もしKさんが他人のものを失敬しているかもしれないことを認めた上でのことなら、茸を採ることをこれほどうるさく咎めるつもりはなかったのである。
私には人に正義を説く趣味はない。
しかし茸を採ろうとしたことよりも、彼女の言い訳にいら立ってきた私が、つい
「ほだ木の持ち主は、盗む人はいないだろうと思ってそこに置いといたのかもしれないじゃない? その信頼を逆手にとって他人のものを横取りするのは悪いことじゃない?」と大人げないことを言うと、
「そうよ、いつも言ってるじゃない、私は悪い人間なんだから」と彼女はむしろ誇らしげに言ってのけた。
私は猛烈に不愉快になったものの、とっさには返す言葉も思いつかず、仕方なく黙りこんだ。
今思えばそれでよかったのだ。
Kさんは別に開き直った訳ではない。
多少カウンセリングの勉強をした経験をもつ彼女にとって「私は悪人だ」と言えることは、逆説的なプライドにつながっているらしいのである。
しかし茸泥棒と思われることを恐れるあまり、さんざん見苦しい言い訳を並べた彼女に、この言葉を使う資格があるとはどうしても思えない。
こういったことがあるたびに、彼らと顔を合わせて長い時間を車の中で過ごしたり、何かを採ったりするのがいい加減鬱陶しくなった私は、ドライブに誘われても断るようになってしまった。
思うにKさんもTさんも、悲しみの心なく欲望のままに他人を傷つける「悪人」と、正義を振りかざして他人を責める「正義の味方」という、本来相容れないはずのキャラクターを、見事に兼ね具えているようなのである。
やはりこのような人たちとは、なるべく会わないようにするのが一番であろう。


   父の背中

私が幼い頃から、たとえ自分が女性に恋心を抱くことはあっても、結婚はしない人間であることを「知って」いたことは前にも書いた通りである。
不思議なことに、結婚生活を営んでいる自分をどうしてもイメージできない私が、自分の一人息子と幸せを分かち合っている情景を、何かの拍子にふと思い浮かべることはよくある。
因みに子どもが二人以上、あるいは一人でも女の子の場合や、子どもの母親がいる状況は全く頭に浮かんでこない。
それらの人物は私とってむしろ邪魔者ですらある。
一人息子を連れての放浪の旅、そんな家庭像の存在を頭のどこかに感じている私が強く求めているのは恐らく、自分の分身としての子どものイメージなのだろう。
そういえば私は自分の分身を求めて、「産めない性」の悲しい運命を乗り越えようとした男の物語に強く惹かれるようなところがある。
ゼペット爺さんや天馬博士(そして恐らくフランケンシュタイン博士も)といった他少屈折した男たちは、私にとって決して他人ではない。
私はもしかすると、父親との関係に満たされぬものを感じ、自分が理想の父親を演じることにより、その欠けた何かを取り戻したいのかも知れない。
そのくせ私は、自分が息子に対してどういう人間に成長することを望んでいるのかを考えると、混乱してくるのである。
自分と同じ思いを抱えた人間になって欲しいとある時は願い、またある時は自分と同じ苦しみは味わわせたくないと望む。
私のような人間が自分の抱えた混乱や矛盾に気づかぬまま父親になれば、恐らく子どもと自分の両方を不幸にするだけかもしれない。
私の父も、そのような私とは反対の意味でだが、父親の資質に著しく欠けた人間ではなかったかと思われる。
父自身がどういう時を「父親として子どもを叱る時」と考えたかはわからないが、私にはいわゆる「父親らしい叱り方」をされた記憶はない。
母が私を叱りとばしている時、父が止めに入ってくれるということもなかった替わりに、母の意見とは無関係に、父が独自の判断を下して私を叱るということもまたなかった。
「私の息子に生まれたからにはこれだけは与えてやる、これだけは見ておけ、これだけはしろ、するな」と私の頭には、これからも決して現れることのないであろう息子に対して、伝えたいことがたくさん浮んでくるのだが、父が私に対してそのような思いを口にしたことはない。
父が息子を欲しかったのも単に、標準的、平均的な家庭を演出する手段だったのではないかと思えてくるのである。
父が立って歩けるようになったばかりの私を散歩に連れ出した時、私は父の見ていない隙に、道端に積まれたドブの泥を食べて、医者に連れて行かれたことがある。
目が離せない年齢の我が子ではなく、それ以外の何かに気を取られていた父は、こっぴどく叱られたそうである。
子どもを持ったことのない者の身勝手な見解かもしれないが、私にも父の感覚は到底理解できない。
またある時、探し物が見つからず癇癪を起こした父が、戸棚の上の箱を叩いたところ、そばにあった別の箱が落ちて来て、下にいた私の額を直撃した。
五針縫うほどの怪我は一生消えぬ傷痕を残した。
しかし幸いなことに、今まで私はこの傷が原因で嫌な思いをしたこともなければ、父を恨んだこともない。
二十数年後になってやっと、他人が私の顔を見る時に気を使っているかもしれない、という可能性に思いが及び、鏡を見たり、人に聞いたりと傷の具合を気にしだした時、父は私を慰めるつもりか「大丈夫だね、全然わからないから」と言った。
私が父に憤りは覚えないまでも一瞬この言葉にあっけに取られたのは、もし私が父であったなら自分はこのような言葉を口にすべき立場にないと判断したであろう、という違和感からである。
よく考えてみるとこの言葉には、親切さ、強引さ、鈍感さ、単純さ、弱さなど、父の性格の実にさまざまな面が表れている。
ともあれ私の額の傷が、父の心の傷にならずにすんだのは不幸中の幸いであった。
その他、幼い私は父と一緒の時、川に流され、危うく溺れかけたり、乗せてもらった自転車の車輪に足を巻き込まれたりとさまざまな目に遭い、その度に父は母に不注意を責められた。
しかし、父のこのような大雑把な性格に、一方では私は大いに救われたのも事実である。
むしろ父までが育児ノイローゼでなかったことを、私は喜ぶべきなのであろう。
父は「優しい」人である。
ただしそれがどのような種類の優しさであったかを断っておく必要があろう。
例えば父は私に腕相撲で一度も勝ったことがない。
いくら父の腕が細いからとはいえ子どもの私に本気で勝てぬ訳がないのだが、どうやら負けてやらなくてはかわいそうだと考えたらしい。
おかげで私は、何歳の時に初めて父を負かしたなどという、男の子にとっては胸躍るような輝かしい思い出はついに味わうことはできず、寂しい思いをすることになった。
「腕相撲で私に勝とうとしない父」はそのままわれら親子の関係の象徴であるといえそうである。
私は幼い頃、怒るとものさしで打ち据えたり、針を腕に突き付けて脅したりする母と二人きりになるのがとても怖くて、父が出勤するのを泣いて嫌がった。
父はそんな私をよほど慕っているものと思ったことだろう。
私は覚えていないのだが、後に母が語ったところによれば、父もやはり毎朝のように涙ぐんで会社へ通ったそうである。
しかし正確には、私は決して父が好きだった訳ではなく、ナメ切っていたという方が適当かも知れない。
家族より弱い人間になることが家族に対する優しさだと思い込んでいるような父親では、残念ながら子供に感謝や尊敬を期待する方が無理というものである。
母に叱られて泣きながら食事をしている私の隣に父がやって来て、「我が家のお坊ちゃまのために御馳走を用意しました」などと母に聞こえぬように小声で慰めてくれる時でも、私の胸には感謝よりも軽蔑の念が湧いてきたものであった。
「かわいそうと思うならなぜ、母の横暴から私をかばってくれないのか」はっきりと言葉にこそならなかったが、そんな不満を父に対しては常に抱いていた私であった。
皮肉なことに、多くのヒヤリとするような経験を共にしてきた私に、父が一番強く教えたことは「冒険はすべからず」ということである。
冒険とは即ち、失敗する恐れのあること、少しでも他人に迷惑をかける恐れのあること、ムダなことなどである。
私は小学校の頃、人並にいろいろなものに興味を持ったが、それがカメラや自転車など、父の得意とする分野である場合はやっかいであった。
長時間にわたって散々薀蓄を傾けた挙句、そんな父を頼もしい相談相手と思い込んでいる私に父は「な、だからやめとけば」と言うのであった。
小5の時、何かを作る楽しみに憧れた私は、父の反対を押し切ってラジオの組み立てキットを買った。
口をはさもうとする父を無視して何の苦もなく組み上げた、と思ったラジオからは残念ながら何も聴こえなかった。
ハンダづけの際、気づかずに隣リ合う回路を接続してしまったのが原因である。
結局、得意満面の父が「だからやめとけって言っただろ」と言いながら嬉々として直してくれるのを、私はただ見ているしかなかった。
この時はさすがに悔しい思いをしたが、万事においてこの調子の父と共に長い年月を息子として過すうち、私の中にも、
「何事もとりあえずやめておこう」という腰の引けた姿勢が染みついてしまったようである。
しかし、この「冒険はすべからず」という父の哲学ほど、子どもの精神に有害な影響を及ぼすものはないかもしれない。
なぜなら人が生きることが「冒険」以外の何物でもないからである。
私ならば息子に言うであろう。
「人生は失敗の連続である。決して失敗を恐れるな」
「人に迷惑をかけることを恐れるな。たとえどんなに無害な生き方を心掛けたところで、生きていく以上必ず周囲に迷惑はかかるものである」
「無駄なことは大いにすべし。人は何かのために生きるのではない。生きること自体が目的なのだ。あくまで人生は無駄なものである。だからこそ生きることは素晴しいのではないか」


   精神科

「息子さん相変らずひどいの?」
「うーん以前ほどじゃないけど相変らずね、部屋から出てこないし、ものを壊したり暴れたり」
「あなたみたいないい方を母親に持ったのに、どうしてそういう風になっちゃうのかしらね」
「わがままなところがあるのね。食事が気に入らなかったりすると暴れるみたい」
「恩知らずねえ。作ってもらっているだけありがたいと思わないのかしらねェー」
「私、反省しているのよ。甘やかして育て過ぎたんじゃないかと思って」
「あまりひどすぎるようなら入院させるしかないんじゃないの?」
「それも考えたんだけど、やめとこうと思って。あれでもあの子、家にいた方が幸せなんだろうし、病院に入れられて辛い思いするかと思うとかわいそうで……」
「何言ってるのよ、誰が見たってかわいそうなのはあなたの方じゃない。私からも言ってあげましょうか。『いい加減にしなさい!』って」
「悪いし、いいわ。あの子がよその人のいうこと素直に聞くとは思えないし、第一そのことでまた暴れられると困るから」
「……お気の毒ねェ本当に。私にできることあったら何でも言ってね」
「ありがとう。あなたみたいな人がいてくれて本当に助かるわ」
「悩まないでね。あなたには何も責任ないんだから」
このような会話を母は何度となく空想し、そして実際このような会話を交す相手を身近に求めていたのに違いない。
仕事、趣味を通じた母の知人や親戚たちにも母の口を通じて、我が家の状況は知られていくようであった。
一方私はといえば、それらの人々が私の言い分を全く聞くことなく、頭の中に思い描くであろうイメージを想像しては、恐れおののくばかりであった。
ある日、卓上に残されたメモに、病院に行くという意味の言葉が書かれていた。
前後の文脈から察するに、私はある病院の患者になっているらしいのである。
母の書き振りでは、そのことを私本人も知っているはずだといわんばかりであったが、私には寝耳に水であった。
「息子の異常性は人格の破壊される病気によるものであり、我が家にふりかかった偶然の事故である。故に親は何の責任も負わぬ被害者である」。
この主張を証明してくれる人を求めて、ついに母は病院にたどり着いたのだ。
我が家がカウンセリングを受けていた頃、近所で葬式があった。
私が欠礼した理由を聞かれた母は近所の人に「息子はノイローゼなので」と答えたという。
行かなかった私が悪いのだ、と言われればそれまでであるが、母もあまりに無頓着すぎはしなかったか。
その言葉がどのような印象とともに受け取られようとも、どのような噂に変化しようとも、もうこちらには止めようがないのである。
ともあれ母がこのような意識で我が家の状況をとらえている時に、私が精神科の病院を受診することにはどんな意味があるだろうか。
母の目的は権威に裏付けられたレッテルを私に貼ることである。
医師が何らかの診断を下せば、今度からは母は人と話すたびに「息子は今、精神病院に通っていまして」と言うであろう。
そのような母の言葉を聞いた人が、私という人間を了解不能な危険人物とみなす恐れも、今日の精神障害者を巡る世間一般の理解状況を見る限り否定できない。
想像したくないことだが今後、我が家あるいは私自身の上に起こるかも知れない何かの出来事が、私のことをまったく知らないはずの人の頭の中で、このおぼろげな先入観と結びついて確信に満ちた結論となってしまうとしたらとても恐ろしいことではないか。
私はさっそくその医師に電話で事実関係を確認し、「私の」治療は中止して頂きたいと告げた。
しかしその後再三にわたる私の申し入れにもかかわらず、母との二者面談という形でその医師の治療は続いた。
私もついには語気を荒げて、
「少なくとも私にその気がない以上、いかに医師であるとはいえ、あなたが一方的に私を患者扱いすることはできないはずだ。今すぐに私のカルテを破棄するよう希望する。あなたは家族間のイザコザに介入しているだけなのだ」
と言った。
結局この申し入れは聞き入れてもらえず、私の焦りと苛立ちはつのるばかりだった。
味方になってくれる誰かを求めて私は、日弁連、全家連、市の患者会、命の電話と手当り次第に電話をかけたりもした。
しかし、どこからも具体的なアドバイスを得られぬばかりか、都立の精神衛生センターなる機関に電話した時には、かなり年配と思われる女性相談員から「あなたみたいに三十過ぎにもなって結婚も仕事もせずブラブラしているなんて、そんな人がこの世にいていい訳ないでしょ。本来ならあなたの方から自発的に入院すべきなんですよ」とまで言われ、不覚にも悔し涙がこぼれたものであった。
こともあろうに、私は自分を追いつめている敵の前に踊り出て、助けを求めてしまったのである。
この経験が私の心に残した医療関係者全般に対する警戒感は、かなり後になるまで解けることはなかった。
彼らにとって不健康でいることは悪であり、健康か不健康かを判定する基準は、あくまでも社会の都合によって決められるべきことなのであろう。


   Yさんへの手紙

Yさん、暑さ厳しい中お元気でお過しでしょうか。
突然お手紙差し上げ驚かれたと思いますが、我が家の近況についてお知らせしたく筆をとりました。
ご存じの通り何年も前、両親と私はK先生の所でカウンセリングを受けていました。
当時の我が家は険悪な感情に満ちていました。
私は家族関係がもたらすストレスに忍耐の限界まで追いつめられ、両親と顔を合わせず、言葉を交すことも拒否する生活をするようになりました。
実行にこそ移しませんでしたが、家出や自殺も考えたものでした。
そんな私を両親はどうしたものかと悩んだ挙句、先生のもとを訪れたという訳です。
先生との出会いは母の考え方を変え、このおかげで我が家は深刻な危機を脱することができました。
私自身が先生とお会いするのはさらに暫く後になるのですが、以前とは人が変わったように理解ある態度で私に接する母を、K先生のおかげで私に自分を自然として尊重するような生き方を許してくれるようになったのだ、と思い喜んだものです。
しかし、母の性格がK先生との面談を通して変わった、というのは結局私の勘違いだったようです。
カウンセリングが終ると再び親と私の間にトラブルが増えてきました。
原因は些細なことですが、母は私が思い通りにならないことへの不満をいろいろな形で私に向けてきますし、私はといえば長年にわたる母の性格の影響で干渉されることにはアレルギーになっています。
日々に険悪さを増す家族関係はついに元の絶交状態に復し、以来数年、残会ながら現在に至るまで変化はありません。
私は親が外出中か自分の部屋にいるとき以外、私の部屋から出ることはありません。
唯一のコミュニケーションの手段は母が毎日テーブルに書き残すメモだけです。
このような生活も私としては選びうる唯一の道と思っているのですが、親には私が徒らにこの家の平和をかき乱しているようにしか見えないようです。
目下、家の改築という具体的な問題を巡り、私と親は深く対立しており、最悪の状態です。
今のボロ家のかわりに、過去のやすらぎの記憶につながるものなど何一つない、小ギレイで便利な家が建つことを想像するだけで大きな精神的苦痛を感じる私は、両親の主張する改築には当然、断固反対しています。
私の涙やため息の染み込んだ家、思い出に満ちた庭や植物、これらを支えにやっと今まで生きてきた私は、すべてを失って文字通りのホームレスになるしかないのでしょうか。
両親は私の意志にかかわらず、できるだけ近いうちにこの改築を強行する旨を今朝、明らかにしました。
我が家では今、私は命を賭け、親は人並みの生活を賭け、それぞれが一歩も引かぬ構えでにらみ合っているのです。
実は以前、親とのゴタゴタがきっかけでK先生に5年振りに連絡をとることができました。
その時は我が家の状況をつぶさに訴え、その結果、急遽母と先生の面談が決まったのですが、なぜか一回で終ってしまいました。
何があったのかは想像するしかありませんが、私の方ではなく母の方にカウンセリングの必要があることはK先生もわかってくれていただけに、この打ち切りは残念でした。
不審に思った私の電話にK先生も「本人に続ける意志がないのでは、私にもどうしようもない」と言うだけで、この電話を最後に頼みの綱である先生との連絡は途絶えてしまいました。
もっとも先生は仕事で忙しいのですから、タダの電話を私がしつこくかけたりすれば嫌がられるのも当然のことでしょう。
しかし私はそのショックで(多分)髪がごっそり抜け、人相が変わりました。
母は多少カウンセリングの勉強をして、自分もいっぱしのカウンセラーだという意地があり、以前のように謙虚な態度でK先生の言葉を聞けなくなっているのかも知れません。
しかし私は、一度は我が家を救ってくれたK先生に再び希望を託したいのです。
母からの伝聞を通してしか私という人間を知らず、我が家に対しても先入観をもっている親戚は、助けにはなってくれそうにもありません。
このような醜い争いに、いかなる形でも無関係な人を巻き込むのは本意ではないのですが、Yさんに一つお願いがあります。
適当な機会があったら、うちの母にK先生のカウンセリングを受けるよう水を向けて頂けないでしょうか。
うちの母とYさんは長年のおつき合いですし、K先生の共通の知人でもあります。
Yさんの言葉がひょっとすると母の考えを変えるかも知れません。
煩わしいお願いをして本当に申し訳ありません。
私も今や崖っぷちに立つ思いで、誰かに助けを求めずにはいられないのです。
ご理解ください。

Yさんへ ‘96年8月4日

Yさん、先日は私の面倒なお願いを聞いて下さりありがとうございました。
Yさんは母と親しいだけに、却ってあのような話は切り出しにくかったのでは、と思うとまったくはた迷惑なお願いをしてしまったものと反省しておりました。
さっそくお礼のご挨拶をと思いましたが、なかなか考えもまとまらず、つい遅れてしまいました。
おかげさまで母は先日K先生の所へ行ってきたそうですが、残念ながらYさんがご忠告下さった通り母の言葉によれば「結果はバツ」だそうです。
私には母が行かない限りだめだと言ったK先生が、今度は「息子さんが来ないのはおかしい」と母に言ったそうです。
もう何がどうなっているのかわかりません。
愚痴はさておき、拒絶や誤解に打ち勝つ気力が続く限りは、すべてを諦める前に「助けて」と叫ぼう、と思いついた私にYさんは大いに力を貸して下さいました。
本当にどうもありがとうございました。
Yさんへ ‘96年8月21日


   あとがき

8回の長きにわたって私の連載をお読み下さり、ありがとうございました。
私がこの文章を書いたのは今から数年前、現在の医師やカウンセラー、そしてもちろん本誌「ひきコミ」との出会いなど予想だにせぬ時期でした。
胸にわだかまる思いに文章という形を与えるという作業は、ほぼ完全な孤独の中にあった私にとって、正気を保つために必要な営みでさえあったように思います。
「たとえ読んでくれる人が死ぬまで現れなくとも、自分が石ころでなかった証拠だけは残したい」そのような思い一つに駆り立てられて綴ったこの文章が、いま同じ痛みを抱える方々の心と響き合い、その力になれることをお祈りします。
最後になりますが、私の「未完の遺書」に光を当てて下さった「ひきコミ」編集室のみなさまに心より厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。


   袋吊り「収納」

部屋の状態というのはその主の心の状態なのかもしれない、と思うこともある。私の心が空っぽだった時期は部屋もまた空っぽだったし、今の私の部屋にはさまざまな「現世とのつながり」が床に散らかり、常に新しい何かが動いている。まるで人に見せるために整理されたかのような部屋で生活したいとも思わないが、あまり散らかってくるといろいろと不便なのも事実である。
あるときふと気づいた。私の部屋が散らかるのは収納家具というものがないせいではないか。ダンボールに入れて積んでおくという手もあるのだが、これではいざ必要になったときすぐには物が取り出せず、かえって不便になってしまう。
そこで思いついたのはスーパーの袋の活用である。床に散らかったものを分類して袋に入れ、針金ハンガーで作ったS字フックで鴨居に吊るしておけばよい。電気器具、文房具、自転車用品、画材、さらには洗濯物、燃えるゴミ、燃えないゴミ、そしてスーパーの袋、といった具合に。
フックに直接袋を吊るさずさらにフックがいくつかついたビニール紐を使えば、いくつかの袋を縦に吊るすこともできる。
この「袋吊り」は収納以外の場面にも応用できる。ある冬の夜、食あたりで吐き気に襲われた私がとっさに手に取ったのもスーパーの袋であった。 確かめる間もあらばこその使用であったが、さいわい袋には穴も開いておらず、さりとて床に置く訳にもいかぬそれを、私は他の袋と一緒に鴨居に吊るしておいたのである。
その後何事もなかったかのようにコタツでテレビを見ながらときおり袋を見上げて、私は愉快な気分を味わった。
「万事OK」。意外にたくましい自分を発見した満足感とでもいうのであろうか。


   テレビゲーム

「人生はゲームである」。この言葉に込められているのはゲームに人生を見出すことのできた者の実感であろう。自分なりの目標、努力、運、挫折、勝利の喜び……。
他の何をする気力もない時期も私は「ファザナドゥ」というテレビゲームをよくプレイした。おもしろかったとはいえない。むしろプレイすればするほど惨めな気持ちは募っていった。
それでも私は、暗い街をネズミのようにさまよい歩いているうちに、ウニにつまずいてあっけなく死んでしまう、そんなまぎれもない自分の分身に会うだけのために毎日スイッチを入れたものである。
やがて私の興味は他のゲームソフトに移り、このゲームはさんざん罵倒された末、中古屋に売り払われてしまった。
しかし10年近く後、めきめきとゲームの腕前を上げた私はあの「ファザナドゥ」を探し求めてあちこちの店を回ることになる。観察力、探究心、根気、体力、すべてにおいて昔よりはるかに充実している。いろいろなことを好きになり、また好きなことになら全力で打ち込めるようになった私が、480円で再び手に入れたこのゲームを始めると、私の分身は最終ステージまで難なく突き進み、巨大なボスもあっけなくクリアしてしまった。私の長いゲームはこうして終わった。
あれから後も私はさまざまなゲームに出会い、それぞれに思い出はつきない。結局ゲームは私にとって家族であったとさえ言えるかもしれない。心の底から喜び、悔しがることを教えてくれたのも、母の辛辣な視線と言葉を背に私が打ち下ろす拳を許し、受け入れてくれたのもゲームであった。要するに「人が生きる」というのもそういうことであろう、と私は思う。
だから壊れて動かなくなってしまった今でも、私はこの器械を捨てることができないのである。


   個人制作版あとがき「夢―30年目の和解」

先日、母の夢を見た。
ボロボロのドブネズミに変わり果て、橋の下の住人となった私に「これとっても美味しいパンなんだけど、よかったら食べてみない?」と袋を差し出す。
その穏やかな笑顔を見て何か返事をしようと頭を働かせたら、とたんに目が覚めてしまった。
しばらく私はぼんやりした頭でその後に続いたであろう会話をあれやこれやと想像してみた。
生きていれば80歳になるか。
ということは、私が引きこもりはじめた頃の母は、今の私とさほど変わらぬ歳だった訳である。
現実の母も夢の中同様、老けただろうな、と思う。
かく言う私自身すら、髪もだいぶ薄くなったし、歯もボロボロである。

この手記が「子どもの頃」のタイトルでNPO法人「不登校情報センター」が発行するミニコミ誌「ひきコミ」に掲載されたのは、今からちょうど12年前のことになる。
久し振りに読み返すと、肝腎な出来事は抜けているし、私自身の考え方、感じ方も未熟な部分があり、アンバランスな感じは否めない。
しかし、あくまで当時の私の心理状態の記録という側面を尊重するために、「喧嘩する両親の絵」に追記した他は、今になって筆を入れ、練りなおすことはやめておく。
まだ両親と一つ屋根の下で生活していたこの当時も私は、先に述べたような夢を見たことがある。
まだその頃は先日のものと違って母の夢も怖かった。
「お願いだからこのパンを食べてちょうだい」と叫びながら、夜中に私を追いかけてきた。
町の外まで逃げても私はその悲痛な声に耳を塞がずにはいられなかった。
思えば母にとってはあのパンこそが「ドブネズミに変身した息子を人間に戻す魔法の薬」であったのだろう。
しかし私にとってそれは猫イラズでしかない。

引きこもる前に、ふと思いついた私は母に尋ねたことがある。
「どうして子どもなんか産もうと思ったわけ?」
「そりゃ私は欲しくなかったわよ。でもお父さんが『一人はいた方がいいんじゃないか』っていうから……」
何気ない会話の中でならばこそ、貴重な本音が聞けるものである。
私はむしろこの返事に大いに満足し、安堵したものであった。
―方で、双方の感情が激してくると母は「どこに自分の子どもが可愛くない親があるもんですか?」と胸を張って言ったものである。
育児放棄のニュースが後を絶たない時代ですら、いや、そんな時代だからこそ、善人を自認する誰もが神妙な面持ちで頷くであろう嘘。
私には鉄壁の安全地帯に逃げ込むこのような時の母が許せなかった。
実際は空気に流されて子どもを産んだに過ぎない。
しかし母はその後、周囲に対し、自分自身に対し、自分が模範的な母親であることを必死に証明しようと努力し続けた。
その矛盾は、難産の末、帝王切開で産まれた息子の私が背負い込む羽目になった。
これが我が家を40年以上にわたって空気のように支配し続けた毒の正体であった。

さて、最近の私には一つの心配がある。
もし親が体を壊した時には、その親が積み立ててくれている私の生活費を使ってもらおうかとも私は思っている。
別に麗しい話ではない。
「金だけ投げ与えられたって、人は生きていけるわけじゃないんだぞ」と投げ返したい気持も当然こもっている。
それはともかく私としては、母がその金を使わないことにより「命を削って息子に与える自分はやはり模範的な母親である」と信じて満足しながら死ぬも仕方ないし、金を使うことにより、その幻想を母が自分の手で破り捨ててくれればもちろんそれもよいと思う。
しかし、実際には母はその狭間で葛藤に苦しみつつ、死ぬまでその責任を私に負わせ、その結果自分も苦しみ続けるのではないだろうか。
私の心配はそこにある。
「あの子が心を入れ替えて真人間になってくれさえすれば……」と母の嘆く声が聴こえるようである。

「俺、こんな生活しているけど、生まれてこなければよかったと思ってるわけじゃないよ」
「その言葉さえ聞ければね、私にとってこれ以上の幸せはないのよ」
先日の夢の中で「くたばり損ないのドブネズミのままでいい」と目で言ってくれていた母となら、そんな会話もできた筈である。
しかしそれこそ「甘すぎる夢」というものかも知れない。
育児放棄のニュースが教えてくれる通り、その事実を否定するにせよ、居直って認めるにせよ、ある種の母親にとって子どもは単なる異物でしかない。
しかし子どもの側はそれをつい忘れ、自分にとっては絶対的な存在である母親との和解などを夢見てしまうのである。
昔のように同じ家で生活しなくて済む現在、忘れることによってしか母が心の平安を得られないのであれば、いっそ私のことなど忘れてくれればよい。
私の方も夢の中で毒を持った母に追いかけてこられないだけまだしもというものであろう。


(終)




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